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zoom RSS 安倍(周辺)は「反知性主義」ではない(思索の途中経過として)

<<   作成日時 : 2016/10/04 09:40   >>

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 きっかけはこの記述でした。
「反知性主義」という言葉が流行ってたので、気にしていたけど、いったいこの言葉は誰の何を、どんなイズムを指しているのか、わかるようでわからない。


 この記事が出されてから1年経ちましたが,「反知性主義」という言葉は,すたれるというより使い古される感じで使われなくなってきたようです。
 どうもこの「反知性主義」という言葉が出てきた背景には,安倍およびその周辺・支持者を「バカ」「アホ」「間抜け」「愚か者」「ノータリン」ecc.と呼ぶだけでは飽き足りない(もしくはこれらの言葉があまり「きれいではない」と考える)人たちが,それ以外の小綺麗な言葉を探していたらちょうど当てはまったということがあるようです。
 そのため,いわゆる「反安倍」(あとは反「反安倍」)以外には,この言葉の使用が広がっていないように見え,また「反知性主義」を使用すること自体に「反安倍」という政治的スタンスが付いて回っているように感じられます。つまり「反安倍」というレッテルを貼られたくない人たちは,意図的に「反知性主義」の使用を避けようとしていて,「反安倍」を前面に押し出す人たちは,逆に意図的に「反知性主義」を使おうとしているようにも見えるのです。

 しかし,使い古された感じがある割には,その理解は進んでいない(進まなかった)という,アカデミック用語にありがちな展開をたどっているようにも感じます。
 これは「文字面から受ける印象」と「実際指し示している内容」とに微妙なずれが生じていることから来るもので,近年「日本語の乱れ」として指摘されている各種成語の正誤問題にも共通するものがあります。さらに「日本語の乱れ」の中で言われる多数決主義(使っている人の多い用法が正義)も含めて考えると,そもそも文字面から生産される「本来ではない意味」が受け入れやすい上に,「受けのいい言葉」として使われるうちに,あたかもそれが「本来の意味」であるかのように理解され,多数決主義によって「本来の意味」を駆逐しているという現象なのでしょう(もともと英語なのに,日本語訳の文字面のみを考えているというのも一役買っているでしょう)。
 つまりは「反知性主義」について,「いったいこの言葉は誰の何を、どんなイズムを指しているのか、わかるようでわからない」という感覚を持つのは,そもそもこの言葉を使っている人自身「誰の何を、どんなイズムを指しているのか、わかるようでわからない」まま使っているので,当然の帰結なのです。


 では,反知性主義(anti-intellectualism)とは何かと考えてみると,対応するintellectualism(ここでは「知性主義」よりも「知性偏重主義」や「知的権力主義」のような訳し方をするべきもの)があってはじめて成立する概念で,intellectualismが分かっていないと「反知性主義」は理解できないはずだったのです。
 森本あんり氏の『反知性主義』から多少拾ってみると,「本来「反知性主義」は、知性そのものでなくそれに付随する「何か」への反対で、社会の不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だった」(p.4),「「知性」とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう。」(p.260),「「反知性」の意味も、単に知の働き一般に対する反感や蔑視ではない」(p.261)とあります。
 また,知性が見られないことを「反知性」と呼ぶ傾向について「知性が欠如しているのでなく、知性の「ふりかえり」が欠如しているのである。」(p.161)というようなことも書かれています。
 よく使われている「反知性主義」に関して,それを「知性の「ふりかえり」が欠如している」ことだと解釈すると,まだ理解可能な面があります(本来の意味は「「知性の「ふりかえり」が欠如している」ことに対する批判的視点」であり,やはり解釈が違っている)。しかし,「知性が(感じられ)ない」というイメージも含めてその感覚でとらえるのは,やはり知性そのものに「知性の「ふりかえり」」が含まれているという前提を加えているからだとも言えます。


 一番の勘違いは,首相が「反・知性主義」に含まれるかもしれないという点であります。
 長谷部恭男氏が自民党の参考人として国会に呼ばれ,安保法案(反安倍側に言わせれば「戦争法案」)に「違憲の疑いがある」と述べた後,反安倍側はこれを金科玉条にしようとして「自民党の参考人が」を枕詞にしたわけですが,これはもちろん「知性と権力との固定的な結びつき」を作り出して「違憲の疑い」を強調しようとしたものですから,どちらかというと「知性主義」に入るでしょう。
 首相周辺も,自分たちに都合のよい意見を言わせて学者の権威を付加しようという目論見が崩れたということで,当時自民党の責任者だった船田元に責任を取らせるという愚挙をやってのけました。結局首相周辺も反安倍側も,知識に権威を付随させて相手を抑え込もうとしていたわけですが,このような姿勢はまさしく「知性と権力との固定的な結びつき」を作り出そうという企みであり,「反知性主義」の批判対象なのです。
 その後も,首相(周辺)は「知性と権力との固定的な結びつき」を作るため,自分たちに都合のよい意見を言ってくれる学者を探し,結果的に「3人の学者」を引き合いに出してきました。
 これに対して反安倍側には,憲法学者へのアンケートの調査結果から「180対3」(170とか200以上とか,どの時点を取るかで数は変わる)という「数の論理」を持ち出してきて権威付けを図った手合いがいたのですが,単純に数の論理を持ち出してくるのも「知性と権力との固定的な結びつき」を作り出そうという企みです(学会の一般的な傾向として読み取り,「3人」の方が「知性と権力との固定的な結びつき」を作り出そうとしていることを暴き出して,はじめてこの「180」は意味を持つ)。
 結局のところ,首相周辺「3人」と憲法学者「180人」の争いに落とし込んだ人々の中で,この争いはまさに「「知性」をつかわない「知性主義」をふりかざすおっさんら」の権力争いになったのであって,これに乗った首相が「反・知性主義」に含まれることはないのです。

 また,そもそも「反・知性主義」「反知性・主義」に分けてみたところで,それが明確な差を持った2つの主義として区分できるかどうかは非常に疑問なのです。つまり,「知性主義」と「知性」を分けた上で,それぞれに「反」が付くという考え方が妥当なのかどうかということです。
 まず,ここで言う「反知性」が「知性の(存在し)ない状態」なのか「知性の欠如した状態」なのかという疑問があります。「反知性」は,あくまでも「(権力に結びついた)知性に対する反対・反発」であって,知性に対する「無」の感情(「無関心」や「無視」)ではないのですから,「知性の欠如した状態」を言うことはできても,「知性の(存在し)ない状態」を言うことはできないと考えます。
 そして「知性が(存在し)ない状態」は果たして「主義」たり得るのか,つまり,わざわざ知性を持たないという主義(が存在するとして,それ)はやはり「知性に反対する」という主張に収斂されるのであって,「知性が(存在し)ない」こととは別ではないかと考えるわけです。
(今のところ結論が出ていない状態。「知性が(存在し)ない」ことを「反知性」と呼ぶならば,動物を「反知性的存在」と言うことができてしまう)




 「「知性をもった人」「知識人」「インテリ」というのは、自分自身の考え方や主義主張や立ち位置に対して、何かと自覚的にならざるを得ない人のことである。」(『反知性主義』p.261)
 「知性が知らぬ間に越権行為を働いていないか。自分の権威を不当に拡大使用していないか。そのことを敏感にチェックしようとするのが反知性主義である。」(『反知性主義』pp.261-262)

 この2つから見て,安倍(周辺)には知識人としての自覚が欠けていて,「反知性主義」の精神も欠けているわけですから,どちらかというと「反知性主義の攻撃対象となる“知性主義”」の側に入るのです。
 安倍(周辺)の「インテリジェンス」に対する「即リジェクト」は,「知性の権力争い」において「インテリジェンス」では反対勢力に勝つことができないから,権力で抑え込んで勝利者になろうという反応なのであり,安倍(周辺)自身が「知性主義の方々は気に入らないといった「反・知性主義」」であるということははっきり否定されるのです。

 安倍(周辺)は「インテリジェンス」(知識人)に反抗しているように見えて,その手段がこれまた「インテリジェンス」(しかもそこそこ有名な学者)だったという点に着目しましょう。結局のところ,安倍(周辺)と「「知性」をつかわない「知性主義」をふりかざすおっさんら」は同類で,この二者は「知性の権力争い」をしているということなのです。



 もちろん「「知性」をつかわない「知性主義」をふりかざすおっさんら」は,自分自身を「知性があり,もちろん「知性の「ふりかえり」」はできている」ものと考えているのかもしれませんが,外から「「知性」をつかわない「知性主義」をふりかざす」つまり「知性の「ふりかえり」が欠如している」と見えているので,やはり「反知性主義」の批判対象であるのです。



余談1
 内田樹は「反知性主義」という語をよく使いますが,確かに内田ぐらいの人が使うと,反内田樹=「反知性主義」と言えそうな意味を持ってくるわけですが,そのくらい気概を持っている人が反内田樹勢力の中にいるかというと,これも疑わしく感じます(つまり,内田樹に「反知性主義」と言われると,感情的に否定反応を示すことしかできないのではないかと)。

余談2
 10月2日のLiteraの記事のタイトルの一部に「安倍の反知性」と書かれているのがあって,やはり「反知性主義」は理解されていないのだと感じた次第。
 現にその記事の中でも「反知性」の人たちを「「知性」コンプレックスの強い彼らは、「知性や教養のなさ」を「上から目線」で説教されたとたん、それに耐えられずヒステリーを起こして、相手を「反日」「サヨク」よばわりをはじめる。」(赤色部分は引用者による強調)と評価していますから,やはり「知性のなさ」を直接「反知性」に結びつけているのです。



きっかけの記事
まりにっき:反知性主義について
 http://maritwd.hatenablog.com/entry/2015/10/03/173001

参考(題名と記述の一部:余談として)
水道橋博士が安倍首相を批判してネトウヨから大炎上! 博士が12年前のインタビューで嗅ぎ取った安倍の反知性|LITERA/リテラ
 http://lite-ra.com/2016/10/post-2597.html

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。見ました。
なんかこれを書いた時の気持ちなどをかなり忘れていますが、要するに論敵を「反知性主義」と罵るけどむこうは「知性」の意味じたいを持っていこうとしているので、やばいですよねってことを言いたかったのですたぶん。どちらかというと、「反知性主義」を「反知性」と混乱して使っていると、「知性主義」すなわちintellectualismの存在基盤であるところの「知性」そのものの在り方を持っていかれるから、そこんとこ何とかしたほうがいいんだけどって話でした。
読みながら思ったことは、インテリ層(知識人層、「知性主義」の担い手)ってどんな方々?というイメージが、たぶん私とえりっくさんとでズレていて、それどっちが正しいかという話ではないけども、青年期の経験ってとても重要、ということです。(私の「知性主義」イメージは間違いなくその頃に培われているので)雑駁ですが、どうもありがとうございました。考えてみたいと思います。
まりにっきの中の人
2017/02/02 21:14
たびたびすみません。うちのブログ、移行して放置しているから気づかないだけかもしれないけど、トラバとかしていただいても、全然わからない…?前のダイアリの時はお知らせが来たんだけど。そんなこんなでホント、1年くらい気づかないこと今後もありそうです。ごめんなさい。
まりにっきの中の人
2017/02/03 07:14

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