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zoom RSS 「普通」を押しつけること

<<   作成日時 : 2014/08/06 15:23   >>

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 「普通の圧力」とは何か,「普通」つまり「特に何も考えることなく(=前提なしに)そうであると認識するべきこと」をふりかざして他人に圧力をかけることですが,それは自分が受ける時には非常に大きな力として受け止められ,自分が他人にかける時には自分が圧力をかけていることすら気にかけないという特徴があります。
 そう考えると,所詮「日本における「普通」という暴力」とそれに対する批判は,誰が「普通」を振りかざせるかという権力争いの勝者と敗者の構図でしかないのではないでしょうか。

 村野瀬はあるTweetを引用し,「「普通」の暴力」が「日本的な同調圧力を巧みに表現して」いると考えているようです。全否定はしませんが,別に「郷に入っては郷に従う」が日本だけにあることわざではないのに(「入郷而随郷」とか"When in Rome, do as the Romans do."とか),「日本的」というところに落とし込んで「日本理解のキーワード」とするのは妥当かどうか検討の余地があるでしょう。

 村野瀬は「日本における「普通」という暴力は有無を言わさず行使されるから嫌い」と言っています。確かに「日本における「普通」という暴力」はそのような特徴を持っていますが,私はそれに付け加えて国際的な「普通」という暴力に目を向けることも考えたいと思います。つまり,日本以外では「「普通」という暴力」が「有無を言わさず行使される」ことはないのかということですが,日本においても,いわゆる「多数派」のみが「「普通」という暴力」を「有無を言わさず行使」するのかについても考えたいところです。

 さて「日本における「普通」という暴力」,国家レベルで考えてみると,「普通」の国のように「軍隊を持つこと」「集団的自衛権行使容認へと傾くこと」への反論を「普通ではない」と抑え込むようなものがあるというのは村野瀬の念頭にあるでしょう。ただ,そのほか,特に村野瀬が力点を置いている分野の1つである「死刑廃止」にも(死刑存置派だけではなく死刑廃止派にも)「「普通」という暴力」が存在し得ることについてはどのように考えているでしょうか。


 例えば,村野瀬が「日本の死刑制度が浮き彫りにする日本国独特の我田引水的体質」という記事で「特に重要な部分」として挙げているアムネスティの2013年2月21日付声明では「今回の死刑執行は、日本が人権理事会の理事国として遵守すべき国際人権基準を無視したものであり、世界の死刑廃止の潮流に背を向け、日本をますます孤立させることになるといわざるをえない」と言っていますが,これは私から見れば「「普通」という暴力」の一種です。

 私は,「国際的に普通」という文言を使うことも「「普通」という暴力」につながる可能性があると考えます。主張だけなら暴力と呼べないかも知れませんが,「国際人権基準を無視」→「日本をますます孤立させることになる」というところまでくれば,これはもう脅しであり,言論による「「普通」という暴力」の一種です。

 「「普通」という暴力」に反対する論者は,自分に都合が良いからといっても,このような「「普通」という暴力」をふりかざす物言いに賛成するべきではありません。
 「「普通」という暴力」を批判する死刑廃止論者が,死刑はやるべきものでないと考えるのが「普通」で,死刑廃止は「普通」のことでしかないのに,そうしない(例えば)日本という国は「普通」ではなく,国際的に批判を受けても当然だと考えるのは,結局「「普通」という暴力」を肯定しているということであるのです。

 「「普通」という暴力」は,「普通とは何か」ということを深く考えない人たちによって振るわれるもので,「普通とは何か」について熟考して理解した人は「「普通」という暴力」の主体にはならないというのは,単なる思い込みです。


 こういう手合いは,自分の手元に「正義」があるときには平気で他人に圧力をかけることでしょう。そう,「日本における「普通」という暴力は有無を言わさず行使される」のと同じように。これでは「ひとりでもやる、ひとりでもやめる」とは縁遠いように思いますがね。


 自分に都合よく「普通」を使うことをやめるのは難しいものですが,まずは「普通」を疑ってかかることから始めるのが大切なのでしょう。
 しかし,こう言ってみたところで,「普通を疑う」のは決して「かっこいいこと」ではありません。「普通を疑う」人は「非常にめんどくさい」人であり,めんどくさいことが苦手な人にとってはうっとうしいだけの人です。「普通」でないことは「普通」苦痛を伴うのです。


 ただ,私も,今後「普通」を言う時には,できるだけその「普通」の持つ暴力性に留意するよう心がけたいと思った次第です。
※教育(特に低年齢への)はそもそも「普通」の押し付けによって成り立っているのですが,それを「「普通」という暴力」とあまり呼ばないのはどのように理解しますかね。
※非母語話者相手の日本語教師が日本語の「普通」を言う時は注意が必要なのです。所詮「共通語」「標準語」における「標準的」という意味での「普通」でしかないという意識があって言うのなら(まだ)よいのですが,その「普通」こそが「標準」であり,他は「正しくない」という意識になってくると,教師による「「普通」という暴力」が日本語の講義で展開されることになってしまうのです。



参考
村野瀬玲奈の秘書課広報室:
 日本における「普通」という暴力
  http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-5836.html
 日本の死刑制度が浮き彫りにする日本国独特の我田引水的体質
  http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4148.html

アムネスティ:日本:死刑執行に対する抗議声明
 http://www.amnesty.or.jp/news/2013/0221_3829.html

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