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zoom RSS 「レイシスト」対「反レイシスト」ではない

<<   作成日時 : 2013/08/16 14:11   >>

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 朝日新聞の8月10日付朝刊に「ヘイトスピーチをたたく」として「レイシストしばき隊」の野間易通にインタビューした記事が載っています。
 「レイシストしばき隊」がクローズアップされてから,結構時間が経っていると思うのですが,この記事を読んで,私は「やはり彼らを支持すべきではない」という思いを新たにしたのです。

 レイシストというのは,主にマジョリティ(多数派・権力者)側からマイノリティ(少数者・弱者)側へ為される嫌悪表現と捉えるのが妥当なのですが,それに対する「カウンター行動」として「レイシストしばき隊」が存在するというのが野間の考え方でしょうか。

 しかし,以下のような言い方には疑問を覚えます。
「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』といった理路整然とした口調では、たとえ正論でも人の心に響かない」
「公道で『朝鮮人は殺せ』 『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方がおかしい。むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに直接怒りをぶつけたい、という思いの人々が新大久保に集まっています」

 これは結局,「上品な左派リベラル」が共感を得られていないことに対するいらだちであり,また,それに対して反対しているものでしかなく,彼の言う「レイシスト」に対する反対行動にはなっていないのです。

 確かに,このような過激さを含む行動は,「人の心に響かない」という弱点をカバーしているかも知れません。しかし,人の心に響けばそれで良いのか,人の支持を得ることが目的なのかということには注意しなければなりません。
 野間の言っていることは,結局「目的が正しければ,多少手段が強引でも構わない」という,「レイシスト」側の理屈と同じことであり,「レイシスト」と「レイシストしばき隊」は同じ穴の狢ということを如実に表します。


 まあでも,冷静に考えてみれば,「レイシストに直接怒りをぶつけたい、という思い」をそのまま相手にぶつけるというのは,平和とは相容れないものです。平和を訴える声というのは,特に戦争体験を持たない戦後生まれの人が訴える場合には,それこそ上品で,簡単には「人の心に響かない」もので,『言論には言論で対抗を』というような回りくどいものにならざるを得ないのであります。
 こういう手合いは絶対に「憲法9条を守る人たち」とは相容れないでしょう。


 野間の発言でもう1つ気になるのはこの部分でしょう。
「彼らも僕らも普通の市民。日本社会の多数派、マジョリティーです。それが薦倒し合う光景だけ見れば、確かに『どっちもどっち』です。だが、そこで見落とされているのは、彼らが社会の少数派、マイノリティーを攻撃しており、僕らがそれに反対しているということ。民族差別を楽しむ人と、それに怒っている人のどちらに正義があるか。それは明らかでしょう」

「しぼき隊の素行もデモ隊に劣らず悪く、決して『善』ではない。レイシストとの対決は『悪対悪』とさえ言えますが、それでも『正義』は疑いの余地なく僕らの側にある」

 野間は自分がマジョリティであることを認めた上で,自分を「マイノリティ攻撃に反対する側」と規定しています。そして「自分の側に正義がある」と主張しています。
 しかし,実際問題として,野間は大きな見落としをしています。それは自分が「マイノリティの味方」だと根拠なく規定していることです。
 確かに,野間を支持し,野間と共に「レイシストしばき隊」として活動する人もいるのでしょう。しかし,自分の周りに集まるマイノリティが存在することを,そのまま自分が「マイノリティの味方」だと言ってしまうことに問題はないのでしょうか。また,声を上げることができないようなマイノリティについては,どのように考えているのでしょうか。
 もし野間が,自分を「声を上げられないもしくは声を上げないマイノリティの代弁者」だと規定しているとすれば,それはマイノリティを代弁表象しているだけであり,マイノリティが今後どうやってマジョリティの世界に溶け込んでいくかという問題には目をつぶっていることになります。そしてそれは,マイノリティをマジョリティと対立させるだけであります。
 厳しく言えば,野間は「マイノリティー攻撃に反対している」のではなく,「マジョリティのマイノリティに対する差別意識,およびそれへのマイノリティの反感を利用して,民族差別を楽しんでいる」のです。野間は,民族差別反対の側を代表するものではないのです。
 こう考えれば,「正義」が野間の側にもないことが明らかになるでしょう。この構図は決して「『悪対悪』」だけではなく,やっぱり「非正義対非正義」を含んだものということなのです。

 そもそも,正義とは反「不正義」とか対「非正義」とかではありません。それ自体がどのようなものであるか問われるべきものです。少なくとも正義とは何かが分かっていないままに「『正義』は疑いの余地なく僕らの側にある」と言ってのける野間に,正義などあろうはずがないのです。

 野間は「子どもの頃、中沢啓治のマンガ『はだしのゲン』を繰り返し読みました」と述べ,「法や社会が人を守らない時、どういう原理原則で行動するべきか。あのマンガから学びました」としていますが,果たして本当に学んだのでしょうか。野間は自分でマジョリティだと述べているのですから,『はだしのゲン』を引き合いに出して,自分の行動の悪を否定することができる立場にはないのです。それは単にマイノリティを装っているとしか言いようがなく,つまりはマイノリティの立場を搾取して,マイノリティを代弁表象しているということになるのです。


 ここからも分かるように,野間はレイシストに反対する立場に居ながら,むしろレイシストと同じ理念で行動している,簡単に言えば,これは「レイシスト対反レイシスト」ではなく,レイシストの主導権争いなのです。

 このように考えてみれば,「レイシストしばき隊」をつぶすのに尽力すべきなのは,保守でもネトウヨでも警察でもなく,むしろレイシストを憎む側なのです。「レイシストしばき隊」を支持することは,まぎれもなくレイシストを支持することなのであります。

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