Eric Prog

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zoom RSS 何に挑戦したかったのか

<<   作成日時 : 2010/04/05 20:39   >>

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 阿久根市長竹原のWeblog,3月24日付の記事に挙がっているurlですが,説明によると『独裁者』から抜粋した文章のようです。つまり,以前日経の「春秋」の記者に対して「読んでいない」と悪態を吐いた,あの『独裁者』の文章を,一部とは言え読むことができるという訳ですね。

 抜粋されているのは「タブー」と「真意」という題が付いている部分です。どうやら竹原のWeblogに上げられた11月8日付の記事が,障碍者団体などから批判を受けたことについての言い訳として書かれた部分のようですね。
 さて,それを読めば,竹原の「真意」が分かって,竹原は批判される所以がなかったと思えるのかと言えば,それはない。むしろ竹原が自己正当化に走っているということだけが読み取れるものとなっています。


 そもそも竹原は,「タブーに挑戦した」つもりらしいのですが,何を「タブー」であると設定したのかということと,文章から読み取れる所の「存在する問題」との関係が分かっていないらしいのです。


 「タブー」の方は事の顛末であって,むしろ後にある「真意」を先に読んだ方が良いと思いますので,先にそちらの文章から。


 始めの部分で竹原はこのように言っています。
誤解を怖れずに言えば、私が伝えたかったのは障がい者、健常者の分け隔てなく「生」を善とし、「死」を悪と単純化してしまう考え方をすべて正しいとする風潮に対する疑問でした。高度医療が発達した結果、人間は昔ほど死のリスクを回避することができるようになりました。このこと事態は歓迎すべきことなのかもしれませんが、医療によって救われた命によって生をまっとうすることを喜ぶ人もいれば、逆に苦しむ人がいるのも事実と言えます。また一方で高度医療の普及は社会的コストを押し上げているのも事実です。

 纏めれば論点は以下の3点ということになるでしょうか。
 1. 「生」を善とし、「死」を悪と単純化してしまう考え方をすべて正しいとする風潮
 2. 医療によって救われた命によって生をまっとうすることを喜ぶ人もいれば、逆に苦しむ人がいる
 3. 高度医療の普及は社会的コストを押し上げている

 竹原の主張は「こうしたいくつかの問題を論じることが、すなわち「悪」だとするような考え方には、私は賛同できません」ということですから,この3点を論じること自体が批判されたのかどうかということが問題になるでしょう。
 さて,では竹原は何を言われたのか,何について謝罪しろと言われたのか。まさかその3点を議論すること自体ではないでしょう。その中で「優生思想」を表現し,「障碍者を差別した」*事について批判され,謝罪しろと言われた訳なのですがね。

 しかも,さらに言っておくならば,竹原が当該のWeblogで「池田信夫blog」を引用してまで批判したかった「筈の」ものは,「医者不足」とそれを憂うような事を言う医師会が,実は医師不足を招いていたということだったのです。それがいつの間にか「優生思想」と「障碍者差別」を表現する場となった訳ですから,竹原の文章の構成が如何に拙いかという事も良く表していることになるんですがね。
 「医師会が医師不足を招いたくせに,今になって医師不足を憂えている」と言いたいだけなら,そもそも上で纏めた3点にすら繋げる必要もないのですが,「権力」*を批判すればよいと思っている竹原には,何でも機会を捉えて批判しておきたかったのかも知れないという風にも思えてしまいますね。


 さて,それについての竹原の言い訳が「障がい者を差別しているとの多くの批判を受けましたが、議員の頃から私の政策のもっとも重要なテーマは「弱者の救済」です。」ということなのですが,残念ながら「障碍者の差別」と「弱者の救済」は背反の関係にはなく,両立するのです。
 竹原が「弱者の救済」を掲げておきながら,実は「障碍者を差別していた」ということであれば,実際には「弱者の救済」を市民からの支持を得るために利用していたと言うことになる訳ですが,竹原にはそれを否定する材料に欠けています。単に「私はそうではない」と言って済むのであれば,それは「自分のことを一番理解しているのは自分自身」という罠に陥っているということでしかないですね。


「障がい者差別」とされたブログの記述について私は、議会で「ブログを読んでもらえれば私の考えは理解してもらえる」と発言しました。ブログの文章の一部分を恣意的に取り上げ、脚色された新聞記事は、メディアの常套手段とはいえ、私の考えていることとは大きな隔たりがあるのは言うまでもありません。


 さて,Weblogの全文を読んでも,竹原が引用した新聞記事と「私の考えていること」とに「大きな隔たりがある」ように見えないのは,一体どうしたことでしょうか。
 まあ,こういう手合いはよく居るもので,「Weblogでの自分は自分の極一部でしかない」とか何とか言うものです。でも,それも「その人の一部」であることは言うまでもないのであって,


 竹原の11月8日付のWeblogの記事は,自身が優生思想を抱き、障がい者の方々を蔑視していること」を図らずも吐露した文章な訳ですが,それを認めることができないで,ひたすら「謝罪の対象がない」とか「タブーをつくることが社会に寄与するとはとても思えません」とか言って「謝罪を拒む」という逃げを打ち続けているのですがね。
 「ただ触れただけで非難が集中するようなタブーをつくることが社会に寄与するとはとても思えません」と言って,自分は問題提起しただけだと主張するわけですが,この言い方は「単なる」問題提起ではなく,明らかに「擁護施設に行く子供」*を「悪しきもの」として見ていることになっている,それが問題だと言うのです。
 批判の対象が「医師会」だとしても,「以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている」こと,そして「擁護施設に行く子供が増えてしまった」こと,この2点を批判の材料にしている以上,そのことを「悪」だと見ているとしか言い様が無いのです。そうでないのならば,なぜそのようなことを言う必要があったのでしょうか。

 また,例え竹原にとって「以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている」状態で「擁護施設に行く子供が増えてしまった」のだとしても,それによって「生き残っている」側、「養護施設に行っている子ども」の側の立場からこの文章を読んだ場合,果たしてどう思うでしょうか。
 竹原は少なくともこの点を考えていない。それだけではなく,それを考えるだけの「想像力」が欠けているのに,これまで「弱者の救済」を謳っていた訳で,それを恥じることもない,それが問題だというのですよ。

 竹原は「私が謝罪したら反対方向になる」と言っていますが,この人が謝罪しても,この人が「提起したかった問題」は何も「反対方向に」なりませんよ。竹原は優生思想を抱き、障がい者の方々を蔑視していること」を謝罪すれば良いだけなのであって(「謝罪」したくなければしなくても良いかも知れないが,それを「認識」する必要はある),別に「生」を善とし、「死」を悪と単純化してしまう考え方をすべて正しいとする風潮に対する疑問」を持つことを謝罪しろと言われている訳ではないのですから。


 それと,竹原の言う「社会は志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受けなければならない」というのは何なのでしょうか。結局自分は「意志を持って悲しみを引き受け」る側にいるという事を前提としているとしか考えられません。
 この人には「もしかしたら自分が,社会から“志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受ける”という名目の下に,社会から排除されるかもしれない」という考えが全くないのですよ。


 少し穿った見方かも知れませんが,竹原は「謝罪を拒むのは、謝罪の対象がないから」と言っていますが,そうではない,この記事によって傷つくような謝罪の対象」など存在し得ないと考えているからでしかないと,少なくとも私はそう考えます。その意味においても,竹原には,自分の文章がどのように読まれるか,また,それによって人の心が傷つくかも知れないという「想像力」が欠けているというのですよ。


 さて,竹原は「誤解を怖れずに言えば、私が伝えたかったのは障がい者、健常者の分け隔てなく「生」を善とし、「死」を悪と単純化してしまう考え方をすべて正しいとする風潮に対する疑問でした」としていますが,この文章自体が悪文で,何とも捉え所の無いものですね。
 まず「「生」を善とし、「死」を悪と単純化してしまう考え方をすべて正しいとする風潮」,これは何のことを指しているんでしょうか。竹原は高度医療について色々と誤解しているようですが,そもそも医療関係者が患者の生命を繋ぎ止めるかどうかを決定すること自体に,倫理的に非常に大きな問題があって,慎重に議論して結論を出す必要があるのに,それを今までしてこなかった,そのことが分かっているんでしょうかね。
 つまり,高度医療の下で「お年寄りが人工呼吸器を外してもらえず、本人はもちろん、家族の負担が増えるという、結果として惨めでねじれたこと」になったり,「以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増え」たりするのは,医療関係者に命を奪う権限を与えていないからという理由があるのですよ。

 しかし,もし医療関係者に命を奪う(もしくは「終わらせる」と言おうか)権限を与えた場合,確かに現在顕然化している「結果として惨めでねじれたこと」を避けることはできるかも知れません。しかし,その権限を与えた場合,それによって新たに「結果として惨めでねじれたこと」が起こらないとは限らないのです。また,それが起こった場合に「社会は志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受け」ると言えば全てが許されるのか,そもそも社会が「悲しみを引き受け」ることを強制して良いのか,こういった派生する問題は全て無視されています。

 竹原は「悲しみを引き受け」ると言うのですが,現実にある医療を適用されないことによって起こる現象というのは,単に「命が失われる」のではなく「命が奪われる」、「命を奪う」のだという認識が欠けているように思います。
 だからこそ,簡単に「『生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違いだ」と言えるのでしょう。この問題は「生=善、死=悪」という単純な図式ではないのです。


 もう少し踏み込んでみれば,刑法が「殺人罪」を設定しておきながら,「命に価値付けをして,『価値がない』と判断された命を奪うことを肯定する」こと自体,非常に大きな矛盾を孕んでいるということを,竹原は自覚した方が良いでしょうね。これ,人権という観点から言えば,刑罰として法律で定められている「死刑」よりも,「生きる」という基本的な人権を侵害していることになるのですが(こういう価値付けは刑罰ですらない),それに対する考えすらこの人にはない。
 それでいて「『生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違いだ」とか「センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない」とか言われてもね,「生きている苦しみ」をことさら強調するのも,またセンチメンタリズムに過ぎないのですが。


 さて「医療によって救われた命によって生をまっとうすることを喜ぶ人もいれば、逆に苦しむ人がいるのも事実」ともしています。竹原は一時期仏教思想にかぶれていた割に,「苦しみ」とか「喜び」を人が決定できると思っているようですな。そもそも何が「苦しみ」で,何が「喜び」かなど,時人の発言や評価によって決まるものではないというのが,こういう思想での価値観なのですが,それは竹原の中に無いようです*。まあだから,この人の「仏教思想」なんて薄っぺらいと言うのですがね。

 先の引用も,人工呼吸器に繋がれている人が「苦しんでいる」かどうかは,脇で見ている人が判断しているだけでしかないのですが,そういう「当たり前のこと」が竹原の頭の中にはない。そのような薄っぺらい知識を持ち出してきて,何か中身のありそうなことを語っている風を装いながら,実際は「優生思想を抱き、障がい者の方々を蔑視していること」を述べたに過ぎないのです。



 さらに言えば,小学校の卒業式の式辞で「みなさんの体は仮の姿です。ほんとうのところ「個人」というものはありません」と述べたようですが,だから「体は仮の姿」と言うのなら,なぜ「苦しみ」とか「喜び」とかの基準を人が決定できるのかってことですよ。さらに「ほんとうのところ「個人」というものはありません」と言うのなら,なぜ「個人的な」感情で市政を混乱させているのかってことですよ*。
 結局竹原は,自分にとって都合の良いことを自分にとって都合の良い時に引っ張ってきて権威付けしようとしているだけなんですね。だから総体的に見ると,相互に矛盾を起こすことになるのです。ですから,この人がどれだけ高尚な哲学を引っ張ってきても,その哲学に見るべきものがあるとしても,この人自身は何も分かっちゃいないって事が容易に想像できますな。


 だから,竹原にはきっちりと言って貰いたい訳ですよ。「私は命に価値付けをする。現実の世の中で無駄としか思えない「いのち」は,存在するだけ無駄だから,そういう人にはできるだけ亡くなって貰おうと考えている。高度医療で生き残っている「人工呼吸器を外してもらえないお年寄り」や「擁護施設に行く子供」がその筆頭だ。その悲しみは社会で引き受ける」と。
 こういう「いのち」が*亡くなるのを惜しむことを「センチメンタリズム」と言い,「未来を作るために」、「悲しみを引き受ける」という名目の下に切り捨てようとする訳ですから,それ位のことはきっちりと言って頂きたい。





 さて,前半の「タブー」の方に戻るとしましょう。

 竹原は「ハンセン病関係者の方々からの怒りや御批判は、とりわけ激しいもの」だったことについて「当時の「優生思想」そのものが障がい者を差別するものであり、1996年に法律は改正されています」と述べていますが,これは弁解として何の意味も持たないものです。法律が改正されたことで「優生思想」が無くなったのであれば,それはそれで喜ぶべき事でしょうが,実際はそうではなく,単に法律において「優生思想」を適用しないということでしかない。そして,その思想自体は決して無くなったと言える状況にはないのです。さらに,2009年11月8日付の竹原のWeblogで,竹原がその思想を持っているということが明らかになったということについての批判なのですから,今回の批判と法律が改正されているかどうかは,はっきり言ってしまうと関係がないのです。
 何のことはない,竹原は,政策においては13年前*に法律改正によってハンセン病患者に適用されなくなった「優生思想」を,いまだ持っていると指摘されたことに対して,何ら有効な「言い訳」をしていないわけです。


 竹原は「生まれてきて無駄な人間はいないが、現実の世の中は競争社会だ」と述べて自己弁護を謀る訳ですが,文章の基本として逆接で繋ぐ文章は「"BUT"の後を見ろ」と言われるように,実は竹原は「現実の世の中は競争社会」であることを「言い訳」あるいは「隠れ蓑」にして「無駄な人間」が存在していると述べている訳です。
 確かに「生まれてきて無駄な人間はいない」としていますが,「生きていることが無駄な人間は居ない」とはしていません。そこに加えて「現実の世の中は競争社会」であって「現実を見つめる視点こそが必要」としているのですから,現実の世の中で落後し(ていくしかない状態に陥っ)た人は「無駄な人間」になっていると暗に言っているようなものなのですがね。


 「高度に発達した医療の下では、お年寄りが人工呼吸器を外してもらえず、本人はもちろん、家族の負担が増えるという、結果として惨めでねじれたことが起きている。タブーをつくってはいけない。現実を見つめる視点こそが必要だ」,ここまで至ると,竹原が如何に歪んでいるかがよく分かります。
 なるほど,高度医療の下で「人工呼吸器に繋がれた患者が発生し,その家族の負担が増える」という「悲劇」が起こっているから,その素となる「高度医療」が問題なのだと言う訳ですか。しかしこれ,一見もっともなのですが,実は高度医療の側面しか見ていないものと言わざるを得ないのです。
 そもそも医療が発達しようがしまいが,患者の家族の負担というのはある訳です。高度医療が無くても長期療養を強いられる患者というのは居る訳で,その患者の家族の負担は,高度医療の発達によって変化しなかったり,あるいは軽減されている可能性があったりする訳ですね。ところが竹原は「高度に発達した医療の下で」の話しかしていない訳です。
 「高度に発達した医療」があろうが無かろうが,「結果として惨めでねじれたこと」は起こっている(起こり得る)訳で,そうなるとそれは「高度医療」だけに責を帰せられるものではなく,社会全体の問題として捉えなければならないものなのです。

 現在「お年寄りが人工呼吸器を外してもらえず」という状態になるのは,「高度医療」の所為ではなく,そうしない選択肢を取る権限のある人が居ないからであって,人工呼吸器がある以上,それを付けられた患者からそれを外すことが許されないというのが日本の現状なのです。しかしそれは高度医療の所為ではなく(人工呼吸器の存在を「高度医療の賜物」とするのなら話は別ですが),それを外すのが「命を奪う」事であるため,その権限を与えられている人が居ない所為なのです。
 そしてそれは,社会がその権限を,誰に、どのような状況下で、どのような形で与えるのかということを真剣に議論してこなかった結果でもあるのです。なるほど「高度医療」と「医師会」を悪者にすれば,非常に簡単な図式を描くことができるでしょう。しかしそれは,高度医療下での「Spaghetti状態の患者」とそれに伴う患者家族の負担増を引き起こしている要因の複雑に絡み合った糸をほどく作業ではない,全てを「高度医療」の所為にしてはならないのです。

 竹原の文章は,高度医療がもたらす「悲劇」を高度医療だけに還元していると言わざるを得ないでしょう。現実を見つめる視点こそが必要」なのは竹原が批判する側(だけ)ではなく,竹原の側で(も)あると言っておきましょう。*


 さて,竹原は自分が批判を受けるようになった経緯も気に入らないようです。
 「なぜ11月8日に書かれたブログがおよそ1か月も経った、12月の議会開会直前というタイミングで12月3日付の新聞に載るに至ったのか、私は強い違和感を覚えていました
 なるほど,竹原は自分が注目されていると思い込んでいた訳ですね。別にその時問題にされさえしなければ,何を言っても問題にならない訳ではないのですが,「およそ1か月も経った」のに問題にするとは何事かという訳ですか。

 そして,「現在のように問題化したのは、メディアが検証することなく大騒ぎするから」と言っていますが,問題化しなければこの発言は許されるのでしょうか。いや,そもそもメディアが取り上げなければ「問題」は「問題」にならないのでしょうか。
 私も,恥ずかしながら,以前はそう思っていましたよ,メディアが「問題にする」から「問題になる」のでしかないのだと。しかし,それはそうではなくて,メディアが「問題にする」ことをしなかったものであっても「問題である」場合はあるのだと。メディアは自分にとって都合の良いものを「問題にする」のに過ぎないのに,私はメディアが「問題にする」部分だけを見ていて,「問題になる」ものをメディアが決めているのだと思い込んでいた訳です,今にして思えば何とも恥ずかしい。



 結局,竹原の『独裁者』からの抜粋という文章を読んでみて分かったことは,竹原は「謝罪しないために謝罪を拒否している」だけでしかないということです。竹原が「真意」の最後で書いている「謝罪することが、すなわち、私が優生思想を抱き、障がい者の方々を蔑視していることになってしまう」というのが全てでしょう。
 自分が已に「優生思想を抱き、障がい者の方々を蔑視していること」になっているのに,それを認められないから,あるいは認めたくないから,謝罪しないと言っているに過ぎないのです。
 図らずもそうなっていたのであれば,謝罪して認識を持ち直せば良い話ですし,そうでなければならないのですが,謝罪もしない,「優生思想を抱き、障がい者の方々を蔑視していること」も認めないというのは,大胆不敵と言うよりただの無謬主義者でしかないですね。



 私は勿論,竹原はこの件について正式に謝罪すべきであると考えますが,この人が本当に認めるべきは以下のようなことでしょう。
  1. 自分が優生思想を抱いていること
  2. 障碍者や人工呼吸器を外すことができない患者を蔑視していること
  3. 競争主義は万能であると思っていること
  4. 自分が都合悪くなると,全て「マスコミの所為」にしていること
  5. 自分に人権感覚が欠片もないこと
  6. 他人の命に価値付けをしていること
  7. 自分に敵対する者に対しては何をしても良いと考えていること
  8. Machiavellismの権謀術数主義を真似しているが,ただの自分勝手でしかないこと
  9. 自分は間違えることがないと思っている(自己無謬主義である)こと
 10. 謝罪するという行動を取ることができないこと
 11. 自分はただの権威主義者であること




* 正確に言うなら,竹原の言うところの「擁護施設に行く子供」に対する差別,またそこから敷衍して障碍者を差別したこととなろう。
* 日経の「春秋」を批判した時と同じ論法である。
* 正しくは「養護施設」だし,現在は「支援施設」とでも呼ぶべきだろうが,原文のまま。以下同じ。
* 世間で言われていることを追認しない点で,竹原は一見このようなことを言っているように見えるが,自分の考えを絶対視しているので,結局「人に決定権がある」という視点からは抜け出せていない。
* 竹原の「市政の混乱はマスコミが作り出したのだ」という見解そのものが,全くの「個人的見解」でしかないのだから,竹原が言うこと自体が噴飯ものである。
* 敢えて「ですら」とは書かない。自身にも無意識的であっても「ですら」と思ってしまうケースがある(結局自分も他人の命に価値付けをしている)ことは自覚しているが,「高度医療」によって救われた命が,そうでない命よりも価値の低いものであると考えることには抵抗がある。
* Weblogの日付で考えると13年前。
* 現実は様々な要因が複雑に絡み合っているということを,少しでも自覚した上で文章を書いているのなら,そもそもこのような書き方にはならないであろう。



参考
住民至上主義:医師不足の原因は医師会
 http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20091108
 ※「ただいま 修正中」なんて書いてあるが,『独裁者』に全文載せているのだから,修正する気など無いのではないか。


住民至上主義:障害者問題について 「独裁者」抜粋
 http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20100314

■2010/03/14 (日) 障害者問題について 「独裁者」抜粋
http://cid-6d65c929ea5b503b.skydrive.live.com/self.aspx/.Documents/tabu.pdf



住民至上主義:小学校卒業式 祝辞
 http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20100324

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