Eric Prog

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zoom RSS 今更もう変われない?

<<   作成日時 : 2010/03/13 22:57   >>

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 かつて,50になろうかという人が私に向かって「この年になると性はもう変わらない」と言ってのけたことがありました。何のことはない,性格が変わらなくても仕事や生活がやっていけるから,そんなことが言えるということでしかないのですが,こういう手合いはそれにも気付くことはないのでしょうね。
 仕事や生活の為に,性格に合わない言動を強いられる立場の人のことは,全く目に入っていない訳ですな。こういう手合いが言う一般論など聞く価値もないのですが,更に厄介なのは,こういう手合いの中には自分の話を聞いて貰えないことに対して,異常なまでに不満を持つ者が居ることでしょうか。

 そう言えば阿久根市長も50になろうかという年齢でしたね,「不惑」を超えてから惑いまくっている姿が報じられているこの人,そろそろ「天命を知る」筈なのですが,どうやらこの人にとって「天命」とは自分に都合良いものでなければならないらしく,マスコミに出る姿もWeblogに書かれていることも,口と文句を連ねただけのものになっているようです。
 まあ,この人の差別主義と偏見は年末年始と比べてもそれほど(全く?)変化無いようですし,変化を期待することの方が酷なのかも知れません。


 さて,今日付のWeblogで竹原は日経の「春秋」に不満があるようです。知り合いを持ち出して「聞けば「春秋」には権威があるらしい」と,実態に関わりなく相手は「権威があるもの」というイメージを植え付けてから全てを始めようとしています。何とも姑息なやり方ですが,自分の「権威」は棚に上げて,相手には「権威」があると言い募るのはこの人の常套手段なので,特に驚くことでもないですが。

 確かに,竹原本人からしてみれば,自分の本を読んでいない人に自分のことを書かれるのに不満があるのかも知れませんが,そもそも日経が書いているのは,『独裁者』の書評ではなくて竹原の人物評です,これを忘れてはなりません。
 本を読まずにその書評を書くのはルール違反でしょうが,人物の行動を見てその人物評を書く訳ですから,その人の書いた本を(1册であれ100册であれ)読んでいないことはそれほど問題とするべきなのかということです。
 まあ「完璧」なものとして見るには,少し欠点があることになるかも知れません。しかし,人物評として見る場合に,当の本人から「本質的な部分までが単純すぎる」と言われる程の欠点かと言えば,そうでもないと言わざるを得ないのではないでしょうか。

 確かに,「春秋」の文章自体,秀逸であるとはお世辞にも言えないものです。色々と伝聞表現を織り交ぜて竹原への攻撃色を弱めているものの,結局は竹原が気に入らないという事しか言っていないという,巧言令色の類ではあります。
 しかし,それに対する竹原の「感想」もまた底が浅くて,結局は「春秋」の文章が気に入らないという事しか言っていないという,こちらは巧言令色にすらならない悲惨なものです。


 そもそも,竹原の言うことなど,本を買わずともWeblogを見ていれば十分その底の浅さが知れるのであって,その本を買うのは金の無駄としか言い様がないのですがね。

 今回も,底の浅い発言には事欠きません。
 「阿久根市長の本務は「家来」を養う事ではない
 「私の使命は「民、百姓」が互いに支えあい慈しみあう社会を作ることだ
 それを踏まえてこういう訳ですよね。
 「私は「民、百姓」が役人や政治家から騙され、食い物にされている事に対して反乱を始めた

 「阿久根市長の本務」って何でしょうか。それ以前に,公務員に給料を払うことは別の人がやることだと言うのですか。結局竹原は,自分はお雇いの市長に過ぎないと言っているわけですな。「家来」に俸禄を出すことが自分の仕事ではないと言っている時点で,財布の管理(の一部)を放棄しているのと同じですからね。これ,税金を付託された市長としての発言として,合格点に値するものではないですな。
 それに追加して「「民、百姓」が互いに支えあい慈しみあう社会」と言ってのけるということは,何のことはない,市長が財布の管理を放棄して,市民が「互いに支え合う」事を要求している訳で,竹原の理想とする社会は「自己責任社会」ですよ。
 そもそも市民のことを「「民、百姓」」と呼んでる時点で,竹原が市民をどう考えているか分かろうものです。「春秋」の表現に釣られてつい本音が出てしまったのでしょうね(「春秋」は「家来」とか「殿」とかいう表現は使っていても,「民」や「百姓」は使っていない)。
 それと,「狭い了見と漢字思考によって構造化した社会を矯正させよう」としている人がこんな漢字ばっかり引っ張ってきて恥ずかしくないのかねえ。特に「百姓」なんて「ひゃくしょう」と読むのか「ひゃくせい」と読むのかどっちなんでしょうかねえ。これを「ひゃくしょう」と読ませるように書いているようでは,竹原の本音は所詮そんなものという事なんですがね,自分を選んでくれている人たちも,結局citizenではないということですかねえ。

 さらに,竹原はここでも「反乱」という語を使っていますが,だからトップが反乱してどうするんですか。裏がどうあれ,建前上のトップが「反乱」するというのは,市役所の中だけでやって貰えれば良いことであって,市役所の外に持ち出されるような問題として「反乱」してどうする,相変わらずですな。


 で,「反乱」とか何とか言うものの,すぐ後にこのような弁解が。
 「そうであっても議員や役人と市民の対立を煽っているのではない。議員も役人も市民のひとりとしては尊重されなければならない

 存在している前提条件を提示していませんね,「自分と歩調を同じくする限り」という絶対的な条件を。これ結局の所,自分と歩調が違う者は,議員でも役人でも市民でも何でも,「敵」と見做して排除することしかできない人の物言いなんですけどね。

 そして極めつけがこれ。
 「議員と役人が特権階級であってはいけないというだけの事だ
 一般論としては全く普通のことでしかないのですが,竹原が言うと「よく言うよ」と思わざるを得ないものですね。何せこの人,「市長」を特権階級だと思っているような言動を繰り返している訳ですから,結局の所は「自分が特権階級で(あるとみなされて)ないこと」あるいは「自分以外の人が特権階級にある(と自分が思う)こと」に対して不満を持っているだけのことなのですよ。



 最後の数段落には,竹原の不平不満としか言い様のない,正に「文句」が並んでいます。幾つか拾ってみます。
 「記者は大昔の珍本は読みながら、私の「独裁者」だけは読まずにこの記事を書いたと見える
 「残念ながら「権威」のニッケイ「春秋」には権威仲間しか見えていない
 「大衆は新聞社から日常的に騙され利用されている
 「発行部数を減らしてきている。大衆の目覚めと共に消滅するだろう

 まず,自分の著書を読まなければ自分を理解することができないなどとは,また大上段に構えたものです。まあ,自分を最もよく理解しているのは自分であるという,相互理解の可能性を断ち切ってしまったような物言いをするだけのことはあります。しかし,この人は本当に自分というものを理解できているのでしょうか。
 自分のことをしっかりと理解できているのなら,マスコミが自分のことをどう報じようが,それは結局自分のことを理解できない人の戯言に過ぎないと考えて,自分自身は泰然自若としていられるはずだと思うのですが,議会への出席を拒否したり,取材に応じなかったりする行動を見ると,どう考えてもそんな筈はない訳です。この人,結局自分に自信が無くて,その自信のなさを看破されるのを恐れ,権威に任せて虚勢を張っているようにしか見えないのですね。

 そして,「権威は権威仲間しか見えていない」とか「大衆は騙されている」とか,竹原流の常套句が並びますが,これも全て自分に追随しない事への苛立ちを示したものでしかありません。
 竹原の論法は,自分の思う通りに動かない「大衆」は「騙されている」ということであり,実は論理展開が逆転しています。

 さて,これは本筋から外れることなのですが,新聞が「発行部数を減らしてきている」理由は果たして「大衆の目覚め」なのかということは問題にされる必要があります。理由は色々あるでしょうが,インターネットの普及とそこにニュースが掲載されるようになることによって,新聞の重要性が下がってきていることも要因として考えられるのであれば,果たして新聞が「発行部数を減らしてきている」のは「大衆の目覚め」に拠るものなのかというのは疑問ですね。いや,それ以前に竹原の言う「大衆の目覚め」とは一体何なのか,それが問題にされる必要があるのかも知れませんね。

 こう言うのを見るに付け,私は,実は「大衆の目覚め」を最も望んでいないのは,竹原自身ではないかと思います。いや,竹原にとって「大衆の目覚め」はmission impossibleの位置付けなのだと思います,と言った方が適当でしょうか。
 竹原は自分が辞め時と思うその時まで「大衆の目覚め」を認めないでしょうし,自分が辞め時だと思ったその時には,実態はどうあれ「大衆の目覚め」は達成されたと考えるでしょう。
 「大衆の目覚め」なんていう,測定することが難しい(あるいはできない)ものを持ち出してきて,それと共にお前らは消え去るのだという捨て台詞を吐くのは,実際には罵倒以外の何物でもないのです。
 言うまでもないですね,因果関係を見出すのが難しいのですから,この発言の正確性もまた測りようがない。つまりはこの発言,最終的に発言者が責任を取る必要がないものなのです。
 このような捨て台詞で締めることしかできないというのは,竹原のレベルの低さを示しているだけなんですがね,この人はそういうことに頓着しなさ過ぎですねえ。


 「竹原信一という男」の一記事の中で『独裁者』に関して「阿久根市政の裏事情ともいえる数々の出来事も綴られて」いると書かれているので,著書を読まないことを批判するのは正しいと思っている人も居るかも知れません。
 しかし,裏事情を斟酌した場合に竹原の行動が是認できる可能性があるというのであれば,それは多分にMachiavellist的(目的の為に手段を選んで目的を達せられないのは悪であるという考え方)なのですが,当の竹原自身がMachiavellism的に問題のある行動(自らが法秩序を守らずして他人の「不法」:あくまでも自分がそう思っているだけ;を指弾すること)を取り続けている中では,それも是認できませんね。
 いつも言ってることをまた言わざるを得ませんか。「不法に不法を以てするのは正義ではない。ましてや不法でないものに不法を以てするのは正義でなどあり得ない」と。



 あ,最後に一つ。竹原は「引用された「土芥寇讎記」はたいへん珍しい本で筆者の博学さが窺われる」なんて書いてますが,絶対この本のこと何も知らないだろ。「春秋」が「珍本」と書いているだけで,それを正に「鵜呑み」にして「記者は大昔の珍本は読みながら、私の「独裁者」だけは読まずにこの記事を書いたと見える」と書いているのが読み取れますね。記者のことを落とすのに格好の持ち上げ材料としてこの「珍本」という表現をそのまま使ったようですが,ここに竹原の底の浅さがよく表れていますね。
 それがどんな価値を持っていて,どんな珍しい本なのかということについて,竹原自身は何の知識もないのに,さも知ってる振りをしているというのが正に姑息,実に底が浅い。



参考
NIKKEI NET:春秋(3/12)
 http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20100311ASDK1100C11032010.html

住民至上主義:2010年03月13日(「ニッケイ(日本経済新聞)の立場1」と「ニッケイ(日本経済新聞)の立場2」)
 http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20100313

竹原信一という男:新BBS(掲示板)について
 http://ossanndream.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

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