Eric Prog

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zoom RSS 「平等」を考えてみる

<<   作成日時 : 2010/01/30 21:32   >>

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 「平等」を考える際,必要なのは,どのような(どのように)平等を必要とするのかということでしょう。

 「平等」に関して,大きな批判を呼んだのは,運動会の徒競走で皆が一列に並んでゴールする(順位を付けない)などという例なのですが,これは所謂「悪平等」の類でしかないのです。もし人生が徒競走だけで決まるのであれば,一列に並んでゴールできるように距離を調整するなどの操作が必要になるかも知れません*。しかしそうでない以上,徒競走で順位を付けないことは,「平等」と関係しないものと言わざるを得ません。
 また,最近「世襲」が批判を浴びていますが,これもまた「平等」という視点からすると批判されるべきなのかどうか。問題は「世襲」する側にしかないのか,それともそれを認めている側にもあるのか,
 また,運動会の徒競走は,別に一列に並んでゴールしなくても,すでに平等なものです。徒競走の距離は,学年によって差があるとしても,競争する人たちの間で競争の条件は同じである,こういうのを私は「平等」と呼びたいのです。
 しかしながら,この世の中,「平等」でありさえすれば良いというものでもなく,人生を決定付けるような状況においては,やはりそれなりの調整というものが必要になるでしょう。ここで更に考えなければならないのは,不幸にして,あるいは結果が出ない人たちに対するフォローなのです。


 さて,今回取り上げるのはうまやど氏の記事ですが,書き出しでこのように述べておられます。
「平等」という病が
この国を覆っている。

あらゆる違いに「格差」や「差別」と名をつけ、
それを消滅させるのだそうだ。

 その後で,斎藤一人の本を引いてきていて,その内容である「ポーカーも麻雀も配られた札(牌)が同じではない」というのは確かにそうなのですが,忘れてはならないのは,ポーカーも麻雀もその不平等性をゲームの中で克服できる可能性があるようなルール作りがされているという事です。
 ポーカーは通常1度しかカードを交換できませんが*,1回で5枚全て換えることも出来ます。さらに,手札の公開は掛け金が決定するまでの間行われず,他の全ての人が掛け金を放棄した場合,手札の内容に関わらず勝ちとなるので,手札が悪くても勝てる可能性は残っています。
 麻雀は一巡で1個しか牌を換えることが出来ず,また役を作れなければ勝つ事は出来ませんが,1局を通せば(和がりが出なければ)最初に配られる13枚を全て換えることが出来る回数は手番が回ってきます。
 もちろん,自分が欲しいと思う札(牌)が必ず貰える訳ではありませんので,配られた札(牌)を全て換えることができること自体に,それほどの意味はないのかも知れません。しかし,全て換えることが出来る可能性があることは,元に返ると,生まれ落ちた時に如何に不遇な状況にあったとしても,本人の力でそれを変えていく可能性があるということでもあります。


 そこから考えると,果たして今の日本の社会が,ポーカーや麻雀のような形になっているのかどうかを疑問に思うこと自体は,問題ないでしょう。


 さて,人と比べて物はどうなのか,うまやど氏はこう言います。
物はどうだろうか、
鉄鉱石や工業製品は、
同じであるといいうる。

 しかし,私はそれも本来は疑問に思って良いものと考えます。
 鉄鉱石など自然産出するものは言うに及ばずで,産地によって質が云々言われている事から考えると,それ自体は「同じである」とは言えないでしょう。しかし,人が手を加えて取り出した「鉄」を考えれば,精製技術の向上によって同じ鉄を取り出せるようになれば,同じであると言うことは可能になります。
 工業製品も同じで,規格自体には誤差があるので,同じ材料、同じ機械、同じ温度で生産したものが,寸分の狂いもなく同じであるというのは難しいと言えましょう。しかし,技術の向上によって,その誤差を我々が感じ取れない位に小さくすることが出来れば,「同じである」と言っても間違いなくなるでしょう。
 こう考えてみると,何もかもが「同じである」のが当たり前と考えられることは,実に幸せなことなのかも知れません*。ですから「悪平等」の考えが存在するという事は,社会が(ある程度)幸せな状態にあることの裏返しと考えることも可能かも知れないということですね。


 ここで「平等とは何か」を考えてみると,やはり「機会の平等」として考えられるべきなのですが,これがしっかりと確保されているかどうかは,やはり考えられなければならない問題でしょう。
 そこで問題となるのは,やはり1回の人生が一局としてしか捉えられないという今の情勢ではないでしょうか。つまり,一度「降りて」(勝ちを目指さない替わりに大きく負けない;ポーカーだと掛け金の積み増しが行われた時点で放棄する,麻雀だと手を崩してでも安全牌を捨てるようにする)しまったり,失敗してしまったりしたとき,次の局が無いという社会。
 ポーカーや麻雀は,配られたものが悪く,さらに引きも悪い場合,降りて次の局に望みを繋ぐという手もありますし,そもそも一局では勝負が決まらないシステムになっています。しかし,次の局すら無いような社会では,それも出来ないのです。しかも,1回勝負のポーカーや麻雀で,配られたものが悪くても,もともと不平等なんだから諦めなさいというのは,いくら何でも酷でしょう,と。
 さらに,平等を求めている人からは,そもそもルールで定められているはずのカードの交換枚数や自摸の回数が足りていないんじゃないですか,とも言われている訳です。これをまずどうにかしてもらわないと,いくら「生まれに文句を言わない」ことが大事だと言われても納得できようはずが無いというものです。


 もちろん,「平等」を求める人の中に,「悪平等」を求めている人が居ることは否定しません。そういう人たちは,私から見ても気持ちが悪いものです。なぜ気持ち悪いのかというのは,うまやど氏の記事のコメント欄を読めば分かるかも知れません。相手が自分と「平等」であると考えれば,「悪平等」は相手の可能性を奪うことによって,自分にとって都合の良い「平等」な状態を作り上げようとしているからかも知れません。


 うまやど氏は「平等」の行き着く先として,「人」の「物」化を挙げておられます。
「平等」を徹底した、
ソ連でも、中国でも、北朝鮮でも、
人は、物・奴隷として扱われている。

 ここで,うまやど氏は「社会主義国家」*のみを取り上げておられますが,これは資本主義の中にもしっかりと根付いちゃっているのではないでしょうか。チャップリンのModern Timesなんかが非常に秀逸なのですが,フォ○ド・システムからト○タ方式に至るまで,資本主義体制における「効率化システム」でも,人を物として扱っていることに変わりはないのです。そして,そのシステムは,物として扱われる人を非常に平等に扱っていることは言うまでもありません。
 そもそも「定量化」を行った段階で,人は「人」としてではなく「物」として扱われているのであって,人を物として扱う部分が全くない社会は,非効率的に過ぎるという批判もまたあり得るので,やはりここはうまやど氏の言う「奴隷」の部分にも目を向けなければならないのでしょう。
 つまり,「物」として扱う以上に「奴隷」として扱っていることが問題なのだと。日本人は*「物」に対しても敬意を払うことが出来ますから,「物あつかい」自体が悪いとは言えないのかも知れませんが,実は人を「物あつかい」した時点で「物」に対して払っているような敬意を払うとは思えないので,「物あつかい」自体が問題であると言えるでしょう。


 まあしかし,不平等批判の批判で「平等」を批判するのなら,では今の公務員に対する過剰なまでの,嫉妬すら含んでいるのではないかと思える程の,「平等じゃない」という批判の目というのも,やはり批判されるべきだと考えなければならないと思うのですが,意外とこれをスルーしている人が居ると思うのですね。


 うまやど氏の言う「平等病」を乗り越える別の可能性としては,ピラミッド的な観念でものを見ないことではないでしょうか。頂点が1つに限られているという価値観の中で「平等」を推進しようとすれば,頂点をなくすことにしか考えが回らない。そうなると簡単に「悪平等」に走ってしまうと。しかしなかなかこれが難しい,以前流行った「オンリーワン」が,実は「自分が一番」と言いたいが為に使われて,結局本来言われるべきだった「人生の頂点は1つとは限らない」という認識には至らなかったように。
 また,頂点に立つ者が,実は自分の力だけでそこに立てている訳ではなく,下で支えている人の存在があるからこそ立つことができているのだという事を自覚することと,下で支えているという事が,それはそれで価値のあるものなのだという認識を持つこと,このようなことが普及しないことには,なかなか「不平等」*な状態を受け入れるのは難しいと思うのですね。
 しかし,頂点に立つ者は時々自分の上に飾りを付けて,飾りの方を頂点と見させるようなことをしますから,その場合は「頂点に立つ者」が真の意味で「頂点に立つ者」であるとは限らないのですが。


 さて,うまやど氏はこうも言っておられます。
そして、いい配パイでいい手を上がれば、
おごらず、みんなにやさしく。
配パイが悪くてもくさらない。

 まさにこうでなくてはと思います。「いい配パイでいい手を上が」っておごっている人と,「配パイが悪くて」くさっている人*のなんと多いことか*,と思ってしまうのですがね。


 結局「平等」批判を見聞きしても,私はこう言いたいのです,「機会の平等」はしっかりと確保されるべきである,つまり,「生まれに文句を言わない」ようにする為には,生まれによって可能性が奪われることはあってはならないと。そして,これ「生まれ」の話ですから,国家主義批判論者の私としては,「国家主義的国家」を安定的に存続させる為の「外国人排除」も,最低限しか認められるべきではないと思うのですね。
 まあでも,今回書いたようなことなど,コメント欄を読む限り,うまやど氏には「釈迦に説法」でしょう。


* それでも本来は「人生が徒競走だけで決まる」という,その社会そのものを変革する必要があるので,一時的な措置に過ぎないのだが。
* 自身の経験として,遊びでやっていた時,誰かが止めるまで何度でも換えることが可能なルールを採用していたが,それを「ポーカーではない」とまで言うことは出来まい。
* 自分の経験から語るならば,中華人民共和国で同じ棟の中で部屋を変わった時(設備は同じ),引き出しの荷物を移すのが面倒なので,引き出しごと入れ替えてしまおうかと考えたが,もし入れ替えたとしたら,引き出しが上手く動かないのではないかという思いに駆られた。規格が同じなら入れ替えても同じように使えるという信頼が無いという,何とも失礼な考えがあったからなのだが,同じだと考えられることは幸せであるということの一例として示す。
* 今の中華人民共和国が,真の意味で「社会主義」であるかどうかは非常に疑わしい。資本主義を取り入れ(資本主義に取り込まれ)ながら,それでも社会主義を標榜しているが故に,所謂「資本主義国家」よりもcapitalismに毒された国になってはいないだろうか。
* 実際は人間性に係る問題なので,日本人に限ったことではないが。
* 認識が広まれば,これを「不平等」と呼ぶ必要はなくなる。
* この場合の「くさっている」は,別に某オタク系の女子のような腐り方ではない。
* 先に述べたように,救済策が十分でないから「くさってしまう」こと自体は理解できるとしても,である。



参考
オノコロ こころ定めて:平等病を越えるには 生まれに文句を言わない
 http://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/60233986.html

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内 容 ニックネーム/日時
TBありがとうございます。
うまやど
2010/01/30 23:43

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