Eric Prog

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zoom RSS これは「上塗り」の類

<<   作成日時 : 2009/12/24 14:43   >>

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 阿久根の竹原,単なる変人かと思っていたら,何のことはない,自らが間抜けで馬鹿であるということを,表に出さずには居られない体質のようです。さらに,自らが変人であることを誇りにしているのは結構なことですが,変人であろうとする為にわざわざ「普通」に闘いを挑んでいるようにしか見えないのもまた間抜けの所行です。結局竹原の変人ぶり,世の中の「普通」に対するressentimentでしかなかったのですね*。
 村野瀬が「モンスター首長」として石原、橋下に続いて取り上げた時は,「ちょっと毛並みが違うのではないか」と思っていましたが,何かもう,同類で良い気がしてきました。段々同類になってきているし(と言うか,石原、橋下の方が「自分は普通」と思っているだけ,まだましかも知れないとまで思えるようになってきた)。

 そしてこの竹原,「普通」に闘いを挑むヒーロー気取りで色々書くものですから,間抜けと馬鹿を晒す訳です(たまに良い事言ったとしても,全部帳消しにして余りある)。


 「住民至上主義」の12/24付けの記事「生死は一体」で,生と死について語っているのは,11/8付の記事(「修生中」として問題視された部分を削除している)に対する言い訳のつもりでしょうか。

 …何のことはない,竹原の思考体系は「たかしズム」が言う「ネトウヨ」,「ネトウヨのブログ」が言う「ネトサヨ」の類でしかないのです。
 ちょっと見てみましょうか。


 「生と死は物体ではなく「現象」である。「生」すなわち「いのち」は物ではない。「かけがえのない命」などという「物」は存在しない」と言っていますが,それは唯物論的*な言い方ではないでしょうか。何のことはない,竹原は自分の認識を人に押しつけようとしている訳ですな。いくら「現象」とか「物」とか太字にしてみたって無駄。
 世の中の様々な思想の中には,「物」が存在しないというのを,竹原は認めている「物体の存在」すら認めないとする思想だってある。逆に「物体」も認識によってその存在が認められるのだから,抽象的な存在も「物」として認めることができるとする思想だってある訳です。
 竹原は自分がどのような立場でものを言っているのか,自分でも分かっていない可能性があります。何せそれに続けて竹原が言いたいことはたったこれだけのことだからです。
 「なぜあたりまえの生と死の事が大騒ぎになるのか、大騒ぎする事で利益を確保したい人が居るからだろう
 「あたりまえの生と死の事」って,生と死について議論することが全て当たり前だというのは勘違いです。生と死の「何を議論するのか」によってそれは「あたりまえ」ではなくなりますから,何を議論するのかによっては大騒ぎにもなるでしょう。竹原の場合,そこをはき違えたから大騒ぎになったのでしょうが,結局何で騒がれてるかは分かっていない訳ですね。そして,認識が異なる人のことを全く考慮していないのも確からしいですね。
 それと,何でも「利益」とか「利権」とかと結びつけて語るのは止めましょう。自分がそういう人間であることが分かってしまうから*。


 元に戻ると,竹原は「「生」すなわち「いのち」」と「生」と「いのち」を結びつけていますが,これ自体疑問を挟む余地があるでしょう。竹原は「ひらがなで与える「いのち」は単純に息をしている状態をあらわす」と言っているので,竹原の言う「いのち」は「生命がある状態(息をしている状態)」ということなのでしょう。しかし,竹原は本当にそれだけを「生」の基準としていたかというのは非常に疑問ですな。


 竹原は「いのち」という日本語を見て,そしてそれに日本では「命」という漢字が当てられていることを見て,「命」という漢字の「中国」での意味を見た。
 ところがそこで止まってしまったのです。そこで止まるのなら,「中国」での「命」という漢字の意味を見ることには何の意義もない。何故なら,竹原がやっているのはあくまでも日本語の議論であって,漢字が持つ「本来の意味」とは何の関係もない。そこで「命」という漢字が使われているとしても,その「本来の意味」と結びつけて語ろうとするのは牽強付会でしかないのです。

 竹原は「ひらがなの「いのち」と漢字の「命」には異なる意味があることに気づいていない、あるいは気づきたくない人々」と言って自分の論を展開しようとしますが,これも駄目論。
 いくら「異なる意味がある」と言ってみたところで,それをはっきりと認識している人の間でしか,それは意味を為さない。つまり「いのち」と「命」を同じ意味としてdecodeする人に対して,「ひらがなの「いのち」と漢字の「命」には異なる意味がある」としてそれを批判するのは,学者が学問の立場から批判するのでない限りは何らの意味もないのですよ*。
 これをわざわざ言い立てる竹原の姿勢は「学者ぶっている」だけですね。

 当然その駄目論の後に来る「ひらがなでの「いのち」を感じている人と、漢字の「命」を掲げる人とは別のテーマと意図を持って議論をしている事になる」のも思い込みです。「漢字の「命」を掲げる人」が平仮名(「いのち」)と漢字(「命」)でその意味を変えているという事実がない限り,いくら竹原が得意気に言ってみたところで,それはEncoding-Decodingの話で終わりです。
 それに続けて「世界観も異なるのでかみ合うわけがない」と斬って捨てて気持ち良いかも知れませんが,相互理解の可能性を捨てていると言わざるを得ず,結局の所「俺は正しい」と言い張っているだけになっていることに気付いているのでしょうかね。
 「世界観が異なる」という認識があるのなら,議論をどうやって噛み合わせていくのかというのが重要なのですが,竹原は最初からその努力を捨てている訳で,そのような人の言うことに正当性など認める必要はないのです*。


 そして「命」を「中国での大衆支配を目的にした言葉」と言っていますが,それはいつの社会のことを言っているのですか? 日本も「命」をその意味で使っているのは同じでしょうが,つまり「中国での大衆支配を目的にした言葉」は日本でも「大衆支配を目的にした言葉」な訳ですな。そして,そこからどうやって「命」が「いのち」と訓じられる理由にまで結びつくのかこの人は分かっているのだろうか。「命」は天から与えられたという意味なのだが。
 「しがみつかなければ失われる権利の世界」と言ってしまっているからには,おそらく竹原,この意味分かってないな。
 そもそも竹原,現代中国語で「生命がある状態」のことを何と言うか知っているのか? 「命」ではないぞ*。


 竹原は最後にこう言い捨てます。「私は「ひらがな」で存在する生と死の状態を愛あるものにするために、狭い了見と漢字思考によって構造化した社会を矯正させようとしている
 「愛あるもの」というのは,「世界観も異なるのでかみ合うわけがない」と認識の異なる人を斬って捨ててできあがるものなのか。「お仲間」ばかりなのであれば,さぞかし愛に溢れていることでしょうね。で,竹原と認識の異なる人たちは斬って捨てられて終わりの世界か,へー。
 結局,竹原が作りたいのは「狭い了見と「ひらがな」思考によって構造化した社会」でしかないのです。開いた口が塞がらないとはこのことです。


 所詮,竹原は哲学など語れる玉ではなかったということでしょうな。



 竹原の「いのち」と「命」に関する思考の元は,仏教思想にあり,竹原はそこから受け売ったと思うのです*。
 で,元ネタについては何らの問題もなく,非常に有難く聞くことができる話なのです。ところが,竹原のような手合いがそれを得意気に引っ張ると,途端に胡散臭くなってしまうのですから,何ともはや,ものには言い方があるということでしょうか。


 最後にフォローだけしておくと,竹原の言いたいであろうことを探っていくと,「全く理解できない」というような類のものと言ってしまうとやや言い過ぎになる部分がある。
 但し,竹原の物言いは完全に間違っている。今は削除しているが「以前は淘汰されたものが生き残っている」*と捉えた時点で,それに該当する(であろう)人たちを侮辱しているし,その生命の価値を「一段劣ったもの」と捉えていることになるのであるから,それに対して批判が集まるのは当たり前のことである。
 結局その後どのような言い訳をしてみたところで,「人の生命に価値付けをした」という事実に変わりないし,(そもそも竹原よ,物体ではない「いのち」にどうやって価値付けができるのだ? 「淘汰」か? その価値付けが正しいという根拠は? 現実か?),それに対して有効な謝罪も何もしていない竹原が「現代の医療技術によって生命を繋ぎ止めている人たち」の「いのち」がそれに頼っていない「命」よりも「一段劣ったもの」であると考えているという部分は消えないのである。竹原は,自分が批判されているのはその「考え方」であるということについて理解していないようであり,これは救いようがない。言っておくがマスコミなど関係ないぞ,竹原が自分のWeblogに書いたその言葉だけで十分。それとも何か,マスコミの情報が入っていないと逆に本当のことが分からないっていうことか?

 竹原がわざわざ「まだ息をしている者」に対して,その「いのち」の価値を云々する,このことが大変な侮辱であるという事への思いが足りなさすぎる。その「まだ息をしている者」が,一般的な生活をしているのなら尚更だ*。

 確かに,「何が何でも死なせてはならない」という思想が行きすぎるのを憂う気持ちは分からないでもない。しかし,そのことを今生きることができた(ている)人(やその家族)に向かって言うことに,何の意味があるというのか。まさか「あなたは死んだ方がましな人間だ」とでも言いたいのか。
 …結局フォローにはなってないな。



* 本物の「変人」は「普通」というものに拘らず,「普通」の普遍性を否定するのである。よって,「普通」の行動を取る時も,それは偶々「普通」と同じであるに過ぎないと考えるのだから,それをわざわざ厭うことはない。竹原のように「普通」を全否定するのは「普通」に拘っている点で,「普通」を押しつける人たちと何ら変わりない。結局竹原は「変人」などではなく,単なる“変な「普通」の世界の住人”でしかないのである。
* 所詮竹原の言うこと,唯物論から見ても間違っている可能性があるから,断定はできないが。
* 竹原がそこに利権を持っているという訳ではない。竹原は「反利益」、「反利権」に自分の立ち位置を見出し,その構造を何処にでも持ち込んでいるということである。
* 「生命」という名詞的な意味では「命」が使える(life)。ただし「生きている」を表すのは「活」である(「活」の反意語が「死」である)。
* この場合言い切って良い。「お仲間が分かればそれで良い」と言っている訳であり,自分と違う考えの人にその立場をどう分かって貰うかという努力がないのなら,そこに正当性など認める必要はないのである。
* 私は「浄土真宗やっとかめ通信」の記述を参考にした。竹原のネタ元がそこであるとは断定しないしできないが,こういった所の影響を受けていると思われる。
* そもそも「淘汰」という語を使っているのが問題である。「優勝劣敗」的な発想が見えてくる訳だ。それと「以前」ってどの時期のことを想定しているのだろうか。
* 竹原の頭の中には所謂「スパゲッティ」状態の人しかないのか。現代医療で命が助かった人など,それ以外にもやたらと居ること位理解できていないのかね。



参考
住民至上主義:生死は一体
 http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20091224
住民至上主義:医師不足の原因は医師会 (←本記事執筆時点で「修正中」)
 http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20091108


浄土真宗やっとかめ通信:「いのち」を「命」と表記しない理由
 http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/03_04_21.html


村野瀬玲奈の秘書課広報室:「モンスター首長」
 http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1498.html

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
通りすがりの者です。

いい内容だと思います。
ぜひ、この記事の全文を竹原(ブログ)宛てメールしてください。
そして、この記事を読んでどう思ったか、竹原に返答を聞きたいところですね。
絶対、返信は来ないと思いますけど。
自分に都合の悪いことにはダンマリ、非公表になる人ですから。
湯気
2009/12/25 22:30
>湯気 様
>ぜひ、この記事の全文を竹原(ブログ)宛てメールしてください。
 ありがとうございます,よい考えですね。…と思ったので,竹原へ記事の内容を要約して送ってみました。
 まあ,「まともな返答」があれば奇跡だと思います。
Eric Prost
2009/12/26 12:14
また通りすがりました(笑)

さっそく対応していただいて、感激です!
奇跡的に返答があったら、またこのコメント上か記事で教えてください。
度々、通りすがりますので(笑)
湯気
2009/12/26 23:59

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