Eric Prog

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zoom RSS 他国の事例から「愛国」を考えてみる

<<   作成日時 : 2009/10/09 14:23   >>

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 党治国家(一党独裁国家とも)においては,愛国は愛党に繋がる訳で(逆もまた然り,愛党は愛国に繋がる),如何にして人民に党を愛して貰うかというのが1つの課題となります。

 以前は「愛しなさい」と言って抑え付けていればそれで何とかなっていた訳ですが,最近は人民も知恵を付けてきて,強制が大きな反発を生むようになり,それを考慮したのか,近年は国家主席が人民と触れ合い,人民が熱烈に歓迎、感動するという映像を多く流すことで「愛しましょう」と言うようになっているようです。
 これは,好意的に見れば独裁、強制が弱まっていることの証で,中華人民共和国が民主主義国家に進化している過程だと取ることが出来るようですが,そもそも中身が全然変わっていない国家体制で,「愛しなさい」が「愛しましょう」に変わったところで,一体何が変わったというのでしょうか。

 中華人民共和国では,国慶節(建国記念日)に時期を合わせて,「偉大な祖国を愛そう」とか,「我が中華人民共和国を愛そう」とか,「祖国の恩に報います」とか,大々的にTVでの宣伝が行われました。しかし,そもそもそんなものを大々的に宣伝して一体感を出そうということ自体,この国が内部分裂の可能性を含んでいることを示すものであり,そこまでして統合している意味,統合の必要性というものが逆に問われてくるのです。

 まあ「中国は多民族国家だから」などと無反省に言う人が居ますが,そもそも「中華人民共和国は多民族国家でなければならないのか」を問うこと無しに,「中華人民共和国が多民族国家である」という前提を受け入れている時点で,議論の俎上に上る資格がないものです。その前にある前提を議論し終わってから議論するべき事でしょう。
 無理矢理にしか統合できないのなら統合などしなくて良いのであって,それを某かの強制力で統合しているのは,過去の遺産だったはずの帝国主義の名残であり,インフラや社会制度の変革をもたらそうが,それを以てその強制力が善であるなどとは到底言えないことは,過去の某国の植民地支配を批判する手合いなら当然ご存じの筈です。
 そして,そんな国家で愛国や報国が呼びかけられていることについて,何らかの奇怪さや違和感を感じない方が,国家のメディア戦略にはまっているという疑いを持つべきではないでしょうか。


 しかしちょっと待てよ,翻って日本はどうかと言えば,それこそ「愛しましょう」と言っても愛されていることを実感できないので,一旦は「愛し合おう」とか「愛し合うのが当たり前じゃん」とか言ってみたものの,結局なかなか愛されていることを実感できないものだから,「愛しているのならそれを形にして現せ」となってしまい,結局の所「愛しなさい」に戻りつつあるような感じになってしまいました。
 しかも,「愛しているのならそれを形にして現せ」を拒否しようものなら,「愛してないんだったら出ていけ」とまで言い,周りがそれを支持して「形にして現す」事を拒否する人を責め立てる構図までできあがってきています。
 何のことはない,「愛しているならセックスしてくれるよね」という,「自分が愛されていること」を確認する行為を求めるためだけに為される言動,セックスしないとでも言おうものなら「愛してないんだったら出ていけ」(「日本を愛していないんだったら日本から出て行け」)とか「愛してないんだったら何で付き合ってるんだ」(「日本を愛していないんだったら何で日本に居るんだ」)とか言い出すようなもの,これってデートDVと同じような構造でしかないのではないでしょうか(まあ「愛する」が如実に現れやすいという点でこの例が分かりやすいという程度ですが)。

 式があるとなれば国旗を掲げずに居られず,式次第に国歌斉唱を入れ込んでさらに声の大きさを測らずには居られないという,そのような形での国旗国歌の扱い方を見ると,もはや「愛しなさい」レベルにも達していない,無いと不安になるもののレベルであるようです。愛を形で確認しないと愛を感じられないこと自体,さらにはその形が自分にとって都合の良い形でなければ認めないという了見の狭さ,精神的に貧困だなと思います。同時に,愛されるべきは国旗・国歌を代辯する「自分」なのか国旗・国歌の背後にある「国家」なのかすら分化できていない「愛国」の実体まで見えてくる訳ですね。


 9月27日の秋葉原では,「在日特権を許さない市民の会」がデモを行なったとき,「排外主義 反対」と書いた紙を持って立っていた人に集団で暴行したという事件があったとのことです。
 その時に国旗やその竿が使われたということになると,その状況は確実に4年前の中華人民共和国と被ります。あの時の合言葉(キーワード)は「愛国無罪」でしたが,今回は「“愛国者”が持つ国旗はどう使おうが無罪」というところでしょうか。「御旗の下に」って事であれば,何をやっても良いと考えるのでしょうか,その人たちは当然4年前の「愛国無罪」には理解を示し賛同したことでしょうね。
 この事例ではもう1つ,4年前の中華人民共和国と被るところがあります。それは,この紙を持って立っていた人のような「外国人擁護」(事はそう単純でもないが)の側に立った人に「愛国者」たちが殴りかかるという構図*1。何のことはない,「右も左も」どころか,日本の「愛国者」たちは自分たちが最も嫌いな中華人民共和国の「愛国者」たちと同類でしかないということが,これで分かろうもの(やたらと国旗を飾りたがるのも似ていますね。まあ,逆もまた然りというのも笑い事でしかない:笑っている場合でもないですが)。


 さて,ここからしばらくは「過保護者会」に睨まれると怖いので,フォントを小さめにして,いつでも削除できるようにしておきます。

 愛するというと,「いままでのあらすじ」の中に出てくる歌詞が興味深いですね。はたあきがそこまでの事を意図して書いているとは思いませんが,見てみると面白いものがあります(どのパートを誰が歌っているのかが分かるともっと面白い。各行の後半部はキョン)。

 なによりも きみがすきだ
 としよりも きみがすきだ
 あいしてる! 気持ち悪いぜ さわるな
 あいしなさい! むちゃくちゃゆーな
 あいしましょう! やさしくゆーな
 あいしあおう! こっちをみるな!
 続きは? つづかない!

 キョンは「あいしなさい」に「むちゃくちゃゆーな」と反発した後,「あいしましょう」に「やさしくゆーな」と反発し,さらには「あいしあおう」には「こっちをみるな」と反発しますが,なぜそうなったのかというのに興味があるのです。
 高圧的に「あいしなさい」と言われて「むちゃくちゃゆーな」と反発するのは比較的理解しやすいと思いますが,逆に「あいしましょう」と言われて「やさしくゆーな」と反発するのと,相互行為的な「あいしあおう」に対して「こっちをみるな」と反発するのは,何とも理解しにくい部分があります。
 しかし,この3つに共通していることがあります。それは「キョンに主体性が認められていない」ということです。『涼宮ハルヒの憂鬱』及びそのシリーズに於いて,キョンは主体性が低い巻き込まれ型のキャラクターとして描かれますが,『消失』などで見られるように,重要な場面に於いてキョンはその「巻き込まれているような状態」を主体的に選択していることがあります。畢竟キョンは自分の意思で巻き込まれているのであって,強制されること自体は嫌っている節が見られる訳です。

 そういうことになると,この3つはいずれの言い方も「愛する」という行為を強制していることに変わりはないということになり,キョンにとっては受け入れられないものということになるわけです。無茶苦茶言おうがやさしく言おうが相互行為として言おうが,1つの行為を強制することに対して反発したのであって,言い方とその実体との本質をキョンは見抜いたのだという捉え方が可能だと考えます。

 その上で私は,この歌詞と愛国心の問題とが非常に重なって感じられてしまうのです。



 国を愛することが当たり前だと考えている人の中には,それを行為に現すことさえも当たり前だと考えている人が居て,それ故にあらゆる場面で「愛国の行為」を強制することが,「国を愛することが当たり前だから」,何の問題もないことだと考えてしまっているということなのでしょう。
 ここでは,国を愛することが当たり前だということにすら考慮の余地があるというのに,それを飛ばした上,さらにそれを行為に現すことが当たり前だと考えていることになります。この思考体系は見事なまでに「国を愛すること」の多様性を奪っているのであり,多様性を奪われた「愛国」に批判の余地が無い訳がないのです。
 そして,批判の余地がある「愛国」を基礎にしているのですから,「愛しなさい」と言おうが「愛しましょう」と言おうが,「愛し合おう」と言おうが,結局の所批判の余地があることに変わりないのです。その議論をすっ飛ばして「国が嫌いなら」という「愛国」の反対語*2の議論をしているのは,もはや噴飯ものでしかありません。


 「私は日本が好きです」*3と言ったとき,その「日本」は国家としての日本なのか,地域としての日本なのか,「日本」と呼ばれる場所に住んでいる人たちのことなのか,「日本」と呼ばれる場所で育まれた生活体系のことなのか,「日本」と呼ばれる場所で生産される物品のことなのか,日本という国家の政府や国家に属する企業がもたらしてくれる富のことなのか,それともまた別の何かなのか,全くはっきりしないのです。
 それにも関わらず,それを全て「国家」に還元する手合いが居ることによって,また,そうでなければならないと考える手合いが居ることによって,「私は日本が好きです」は捻じ曲げられて来ました。
 あらゆる「私は日本が好きです」が「国家」に還元されるとき,「好きなのならそれを(「国家」にとって都合の良い)形に現せ」という言説が有効になり,それに当てはまる「私は日本が好きです」だけが本物で,当てはまらないのは偽物だと考えられるようになります。つまり「好きになり方」=「愛し方」が(この場合「国家」によって)規定され,それに当てはまる「本物」だけに繋がる心が「愛国心」となる訳です。


 姜尚中(を始めとする一部の人)は「国には愛し方がある」と言って「愛国心」の考え方を批判していますが,そもそも「愛国心」の考え方が「私は日本が好きです」を捻じ曲げて来た背景を考えると,何らかの「愛し方」があると考えることそのものが,「私は日本が好きです」を捻じ曲げているのであって,この意味で言えば姜も姜が批判する「愛国心」論者も同じ穴の狢でしかありません*4。私は「国には“愛し方”など無い」あるいは「国の“愛し方”に決まった作法など無い」と言いたいし,またそうでなければならないと考えます。さらに言えば,「国の愛し方」を知っている者など(少なくとも人間には)存在しないし,人間外の存在の声を聞く者によって人間外の存在が知っているということになっても,人を介してしかそれを聞けないのであれば,それは無効であるということです*5。


 「日本が好き」な人が,日の丸・君が代は嫌いであって構わない(勿論好きであることにも何の問題もない),外国人に政治参加の機会を与えようと考えても構わない(絶対排外的な外国人の政治参加反対でなければ,それに疑問を呈することにも問題はない),日本の将来の為に「国家解体」を考えること自体も構わない(勿論今の日本をそのまま継続させようと考えるのも問題なし),色々な「国の愛し方」があって当然ですし,その多様性は国を豊かにするでしょう。
 「私は日本が好きです」と言う人が,日本にどのような形であって貰いたいかということに多様性があるのは当然であって,そういう多様性の中に「愛国」は存在するのだと,そしてある形に収まらなければならないような「愛国」など実際には「愛国」ではないと,こういう風に心得るべきではないかと思うのですね*6。

 その意味では,昨年中華人民共和国の四川を中心にして起きた大地震の際,金持ちの「愛国心」を寄付金の額で決めつけ,額の少なかった金持ちを「愛国的ではない」と責め立てた中華人民共和国の「市民」を礼賛する連中もまた,今回の「愛国者」たちと同列でしかないのです。「愛国心」を問うこと,その時点で既に自身が「愛国者」たちと同じ穴の狢となっていて,他者による国の「愛し方」を自分の視点で判断してしまっていることを自覚して欲しいものです。


 尚,「村野瀬玲奈の秘書課広報室」にある1つの記事及びそこに書き込まれているコメントを下敷きにしている部分があります(記事の本文に引き込まれる程の所はないので,引用はしませんでしたが)
 また,今回は「国家に所属する国民」による「愛国」を話題としましたので,外国を愛する事というのは埒外ということで勘弁願えればと思います。(ドナルド・キーンが日本にとって「愛国者」かどうかというのは埒外ということです)



*1 4年前の中華人民共和国での「反日デモ」の時大学生だった留学生の話によれば,その人は大学内の日本人も住む寮に押し入ろうとした「愛国者」たちに対して張ったバリケードに参加したとのこと。当時こういう人たちは,例え殴りかかられないにしても,内から結構批判された訳ですね,日本の「愛国者」たちには気に留められることもなく。
*2 そもそも「愛国」の反対語が「日本が嫌い」ってのも奇妙なものですし,何を以て「日本が嫌い」と判断しているのかというのもまた奇妙なものですがね。
*3 愛国心と言う割には,「愛国心に関するテーマ」という前提がないときに,いきなり「私は日本を愛しています」とは言わないでしょう。普通は「日本が好きです」程度の表現になることでしょう。
*4 もっと言うならば,他人の教条的な愛し方を否定しておきながら,自分の愛し方も結局教条的なのだから,実は姜尚中の方が質が悪い。
*5 ある人が人間外の存在の声として「国の愛し方」の最も正しい方法を聞き,それを個人レベルで実践するというのなら,それはその人の勝手として認めるべきではある,しかしそれはその人以外の人に対しては無効であるということです。
*6 日本という国が現在の体制、領土を守り続けなければならないと考えることそのものにも疑問を呈する権利はある訳で,それを「国家転覆」の一言で片付ける人が,さらに中共の「国家転覆罪」を笑えていることの方がむしろ不思議。




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