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zoom RSS 基礎が抜け落ちている

<<   作成日時 : 2009/06/21 10:45   >>

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 朝日新聞に載った慶應の井田の記事を読んで,非常な不快感を覚えたのですが,少し目を轉じると,こういうのもあるようで。


 兵庫医療大学のWeb Pageには「学長ブログ」というコーナーがあり(と言っても直接はリンクしていないようで,ウェブ検索に引っかかった「学長ブログ」にたどり着いた訳だが),学長の松田が色々と意見を述べています。
 その中で2009/4/24付の「臓器移植法改正論議に思うこと」と2009/6/19付の「A案衆議院通過」とが臓器移植法の改正論議に関わるので読んでみたのですが,やはりここでも基本的な問題というのは抜け落ちてしまっているようです。


 前者で松田はこのように言っています。
 脳死は人の死か、という議論は欧米やアジアではもう過去のものといっていいであろう。それより、gift of life、善意の臓器提供を如何に増やすかについて他の国は腐心しているのである。
  今、新聞の論調では、またまた脳死は人の死か、社会的合意は、という17年前に脳死臨調でなされたことが繰り返されようとしている。10年どころではなく、もうすぐ20年になる。この間どれだけの人が移植の恩恵を受けずに亡くなっていったのか、社会は知ってほしい。

 松田は基本的なことを忘れているか隠蔽しているかしています。
 そもそも「欧米やアジアではもう過去のもの」となったと言いますが,「脳死は人の死か」という議論は日本では未だに決着していません。つまり,日本はそれだけ「死」の議論について欧米やアジアに遅れを取っているのです。これを直視せずに「gift of life」も何もないものです。まずは「人の死」とは何なのかということについて,国民的議論を巻き起こす必要があったのではないでしょうか。
 移植医療推進派はそれを疎かにしておきながら,「世界の趨勢」を盾にとって早く臓器を切り出し易くしろと言っているのではないでしょうか。それこそが,実際には失われる命の方を軽視していることになっているのにも関わらずです。
 現在の脳死判定が厳格であるのは,松田のような手合いには「日本では「脳死=人の死」という理解が進んでいない」と感じられるようですが,実際には「脳死=人の死」と考える土壌ができていないと捉えるべきなのです。
 脳死が人の死かどうかというのは,死生観に関わるものであり,医学と純粋に関連するものではありません。現に日本には死んでいなくても「日本の思想は死んだ」とか「死んだように動かない」とか,医学とは無関連に「死」という言葉が使われるのですから,「死」が医学の専売品でないのは明らかです。哲学者,思想家,評論家,警察官,果ては一般人まで,幅広く議論する必要性がある「死」に関する問題を,医学者と法律家だけで考えないで頂きたいものです。


 松田は重ねてこう言います。
 少なくともこの10年、救急や移植の現場では、制度に忠実に、社会不信を招かないよう誠実にかつ粛々と、そして現代の医学の進歩を信頼してもらうよう頑張ってきたではないか。それでも信用するに足らないと言うのであろうか。寂しい限りである。

 これは私には恨み言にしか聞こえません。果たして「制度に忠実に」やることが,移植医療全般の信頼性向上に繋がってきたかどうかは,実は不明なのです。
 法(制度)の縛りがあるからこそ,移植の現場が滅茶苦茶なことをしなかっただけなのだという考え方もあります。そして,この法が変わってしまうことにより,移植の現場が暴走するのではないかという不信があります。それは,現行の臓器移植法が施行される前から継続しているものであり,臓器移植法が基準を厳しくして移植がなかなか進まないという現状が,その不信を抑え込んでいただけだとも言えるのです。
 それゆえ,今回の法改正によって,その縛りが解けてしまうかも知れない,縛りが解けると,移植医療の現場がまた暴走するかも知れない,その不信について,松田を始めとする移植医療従事者はどれだけ考慮したというのでしょうか。
 今回も「もっと臓器移植の為に臓器を提供させろ」というばかりで,この法によって起こるかも知れない暴走をどのように止めるのかについては,全く語ることが無かったではないですか。それでは信頼が回復されることなど無いのです。臓器移植法施行以前の不信が消えないままに,今回の暴走を容認するような改正案が,それこそ「臓器移植を推進するために」国会を通ろうとしていること,これが問題となっているというのに。


 また,松田も井田と同じように「臓器移植の脳死を別扱いにしている矛盾」と言っていますが,これは逆である(かも知れない)のです。「臓器移植法」という臓器移植(の推進)を目的とする法律で,まだ議論が尽くされていない「人の死」を扱っているのですから,「臓器移植の場合を別扱い」にするのには何らの矛盾もありません。むしろこれを矛盾と考える方が,「人の死」の議論を回避しながら勝手に決めつけようという自分勝手な意見の持ち主であるとしか言えないのです。



 さて,臓器移植法改正A案が衆院を通過した翌日付の後者で,松田はこう言っています。
 A案とすると何かとんでもないことが起こると一斉に鐘を鳴らしているが、関係規則や運用を活用して心配なく実行する知恵を日本人は持っている。冒険や危険を冒すような余地は日本の救急医療や移植医療にはない。

 これも,移植医療に不信を持っている(移植医療への不信が解消できない)人から見れば,説明になっていないものと捉えられるのではないでしょうか(少なくとも私はそう捉えます)。
 ほとんどの人は「日本人がそういう知恵を持っている」と考えるでしょうが(如何にもナショナリスティックに),「移植医療に従事する者がそういう知恵を持っている」とは考えないのです(私は「日本人がそういう知恵を持っている」ことすら怪しいと考えますが)。それが不信というものであり,それを如何に解消するかということが移植医療に突きつけられている(現時点ですでに突きつけられている)課題なのです。
 それを,「我々にはない,ないから杞憂だ,信用しろ」と言うだけでは,何処かの軍拡大国が情報開示も不十分なままに「我々の軍備は侵略のためではない,信用しろ」と言っているのを聞き入れろというのと全く同じことです。
 例え「冒険や危険を冒すような余地」は無いとしても,不作為を行う余地は十分にあるのではないでしょうか。つまり,例えば「拒否の意志を確認するのを十分に行わない」とか「脳死判定を厳格にやらずにとりあえず脳死と言ってしまう」とかいう,十分な作為を施さないという方向です。
 さて,さまざまに出てくる不信に対して,松田はどのような説明をしようと考えているのでしょうか。


 結局,移植医療推進派の言っていることは,目の前の「移植でしか助かる術のない」者を助けるために,死にゆく一個の命をさっさと「死んだこと」にしてしまおうということでしかないのです。これは,死刑論議でも出てきた「死の隠蔽」に他なりません。
 現在の脳死体からの臓器移植が,我々が「生命活動」と考える反応を残したままの身体から臓器を切り出すという,ある種の「殺」の行為を孕んでいるものなのだという前提を理解することなく,まるでそれを知られると困ると言わんばかりに,とにかく臓器を切り出すのだという考えで進められることに危惧を覚えざるを得ません。それは,結局のところ人命の軽視に繋がるからです。


 臓器移植が進まないために助からない命があるという現状,それは確かに法整備が進んでいないからなのかも知れません。しかし,それを全く人の所為にし,まるで臓器移植を阻む障壁でしかないかの如く考え,また臓器移植を進めることが「先進国」の証であるかの如く喧伝する移植医療推進派の言っていることをそのまま信用することはできません。

 そして私は,現行の臓器移植法でも起こりうるような以下の問題をも危惧しています。
 ある移植で助かるかも知れない命を助けるためになら,死にゆく命を「死んだこと」にしてしおうという,単に臓器を切り出す者の罪悪感を減らそうという考えが,このまま法律として具現化した場合,今後臓器を切り出す者が「生命反応を残す身体から生命反応を奪う」作業に伴う精神的打撃を受けるようなことが起こるかも知れません(刑務所で死刑執行の法務官が精神的打撃を受けるということと似たようなケースが起こらないと言えましょうか)。
 これまでは臓器移植が限定的だったため,もしくは脳死体からの臓器移植に積極的な者によって行われていたために,起こらなかった問題だっただけかも知れないのですが,これが一般化する可能性については,移植医療推進派の者が語っているのを見たことがありません(あったら教えて頂きたい)。このまま(特に)脳死体からの臓器移植をただただ「事例を増やすために」進めていくべきなのか,我々が考えなければならない時に来ているのではないでしょうか。


 これでまだ2人目ですが,大学の先生(しかも専門家)が言っているようなことだからといって,当てになるとは限らないということが分かってきました。
 こうなると,もはや「脳死と人の死」をどのように扱っていくのかということについては,専門家などに任せている場合ではないと感じます。
 今後は,この問題を国民的議論に高めていく必要があると思っています。その第一歩として,やはり臓器移植法改正案は廃案に追い込まれるべきでしょう。先に臓器移植法が制定された時から考えて,法ができても議論は進まないということが分かっているのですから,「とりあえず法を制定し,議論はそれから」というのは解決法として不適切だということを理解しておきましょう。
 まず議論です,それから法を制定するようにしなければなりません。それまでに失われる「移植できれば助かったかも知れない」命の数,それは国民1人1人の不作為の結果であり,それを受け止めるだけの覚悟を必要としますが,それでも私は「とりあえず死んでいることにしよう」という考え方の改正案を成立させることが,命の軽視でしかないように思えてなりません。


参考
学長ブログ:臓器移植法改正論議に思うこと
 http://www.huhs.ac.jp/president/index.php?d=20090424
学長ブログ:A案衆議院通過
 http://www.huhs.ac.jp/president/index.php?d=20090619

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