Eric Prog

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zoom RSS 法学の偽善者

<<   作成日時 : 2009/06/19 21:08   >>

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 6月18日付の記事で,2009年5月10日付の朝日新聞に掲載された慶應の法科大学院の井田という教授による意見を少し取り上げましたが,この意見は非常におかしなものであるということは,もう少し取り上げられても良いかと思います。


 まず,井田は冒頭で「脳死後の臓器移植に関する法律を考える時」と言っているにも関わらず,「法的に「死」を定義することは、どの時点で人として法的に保護されるのかを見極めることです」と突如として人の死に関する議論へと飛んでいくのはどうしたことでしょうか。「法的に死を定義する」というのは、「脳死後の臓器移植に関する法律」と比べて遙かに大きな範囲を統括する問題であるということに対する自覚が足りないといわざるを得ないでしょう。この部分についてはさらに述べます。

 さて,井田は現行の臓器移植法にある「臓器を提供するときだけ脳死が人の死(それ以外は心臓死が人の死)」という定義は「法的に整合性が取れていません」とし,それが「日本の臓器移植法をめぐる最大の問題」と述べていますが,ここで井田は非常に大きな問題を無視しています。
 それは,現行の臓器移植法の「死」の定義が,法的に整合性が取れていないとする場合に,まず「死」の定義を臓器移植法施行以前のものに戻し,そこから始めるという,言わば「人の死」というものを根本から考える視点が,そもそも無いものとされていることです。
 さらに,井田が法的に整合性が取れていないという現行の臓器移植法の死の定義についても,改正法で「脳死を人の死」とすることで法的に問題が無くなるかと言えば,そうはいきません。
 法律は目的とするところがあって作られるのであり,その目的以外のことには極力手を付けるべきではないというのは,法律論としての1つの考え方でありましょう(私はその立場を取ります)。臓器移植法は確かに「人の死」が関わるものですが,この法の目的はあくまでも「臓器移植の手続きを定める」ことであり,「どのように人の死を定義付けるか」は副次的な要素に過ぎません。よって,この法で「人の死」全般について定義付けることは,この法の本来の目的からは外れていると言うべきなのです。
 こうなると,むしろ井田が言うのとは逆に,現在の臓器移植法が定める定義の方が,法律としては適正な範囲で「人の死」を定めていることになるでしょう。井田の意見は,法科大学院の教授が法律について語っているにも関わらず,間違っていると断言しても差し支えないものだと言えましょう。


 さて,この法律を考える当然の前提として,「人の死」と「臓器移植」とでは,「人の死」の方がより重大な問題であり,「臓器移植」のために「人の死」の問題が振り回されることがあってはならないということを押さえておかなければなりません。
 なぜなら,人がその生涯で「臓器移植」に関わるとは限らない(そもそも臓器移植の技術が開発されるまでは,当然のこととして関わることがなかった)のに対して,人は歴史的にその営みにおいて「人の死」に関わらないことがあり得なかったからです。
 人は最終的な死亡率が100%の生物であり,「死」を避けることができません。よって,人が如何なる時点で「死」に至ったと判断するのかということは,臓器移植云々に関わらない,人にとって根源的な問題の1つであります。


 臓器移植法改正を推進する人たちにとって,例え主目的が「臓器移植を推進すること」であるとしても,それが「人の死」に優先することはあり得ないのですから,臓器移植の手続きを変更する法案を審議する前に,「人の死」をどのように定義するかということを,別の法律として定義する必要があったということに触れていない井田の議論は,基礎の部分で重視すべき問題をすり替えていると言わざるを得ません。

 井田は慶應の法科大学院の教授ということですが,科学的背景と文化的背景を総合させて「人の死」を考える必要があると述べているのならば,法哲学の観点から言って臓器移植法改正A案(に限らず現行法も含めて全ての案)が如何にその基本を外しているかということに批判的であるべきだったのではないでしょうか。
 それについて,如何にも考えていますよ的な文章を書いて責任を逃れ,実際には何も考慮していない文章を書き散らすことが,法科の教授のすることでしょうか? しかもしたり顔で生物学的な知識を披露していますが,それも何処かからの受け売りでしかないのではないですか?


 井田は現在の臓器移植法での臓器移植の実体について以下の様に述べています。

 臓器を提供するには、本人があらかじめ意志を書面に記してあることだけでなく、親族の同意も必要とする、過剰な意思の確認を要求しています。逆に本人の意思を尊重していないことにならないでしょうか。

 言いたいことは理解できないでもないですが,井田の指摘する事例は,法の運用の問題,また臓器移植の手続きの過剰さの問題であり,「脳死が人の死」と定義する必要性について考える時には,何の参考にもならない指摘です。はっきり言うと無意味な意見でもあります。
 脳死が人の死かどうかということを述べている部分にこのような何の関連もない議論を挟み込むことによって,現行の臓器移植法が問題だらけでとにかく早く改正しなければならないのだという方向に世論を誘導しようという意志が見え隠れし,非常に醜い論理展開を呈するのです。




 この文章全体を通して最悪と言えるのは,後半での一段落の内容です。

 脳死を一律に人の死ということにすれば、臓器移植でも、親族が臓器提供に同意しても本人の不利になりません。なぜなら、本人はすでに死亡しているからです。

 つまり,脳死を人の死ということにしておけば,本人の意志が「確認できない」時に,家族が臓器移植に同意しても,「本人はすでに死亡している」から,本人の治療にとって不利にならないから,本人の治療の観点からも問題はないということです。しかしこれには,臓器移植を推進するために,人を死んでいることにしてしまおうという意識が見え隠れする内容になっています。
 もう少し厳しく言えば,死んでいることにしてしまえば,その人に生命反応があるとしても,それを無視して臓器を切り出す作業に着手できるし,家族には「もうこの人は死んでいるのだから,生きている人を助けるために臓器を提供しろ」という圧力を掛けやすいという考えがあるのではないかという疑念を抱かせる意見だという感じを受けるのです。
 そして,脳死臓器移植が「生体反応そのものが無くなっていない身体から臓器を切り出す,言い換えれば,生体にトドメを刺すことによって別の生命を生き長らえさせようとするものである」という,「悲しい」前提条件から逃れられないという現実を隠蔽することによって,脳死臓器移植を推進しようという考えであるとすれば,それは次のような「死」を隠蔽している者たちと何ら変わることがないと言えましょう。
 1. 死刑の自動執行を主張しながら,自分はその執行ボタンを押す役目には絶対回らない,ある時代の法務大臣
 2. 1人殺せばとにかく死刑という,殺人という現象がどのようにして起こるのかという内部現象には無関心な,某雑誌の編集長
 3. 死刑が残酷無残な刑罰という,実は根本的に間違っている議論に乗っかり,死んでしまえば元も子もないと言い,とにかく生きていさえすれば良いのだと考える,死刑廃止論者*


 そして,井田は「脳死判定や臓器提供を拒否する権利はきちんと担保される必要があります」と述べますが,これも奇妙な見解と言わざるを得ません。脳死が人の死であるのならば,脳死判定というのは「死」の判定であり,それなしに「人の死」は定義できないのですから,むしろ逆にすべての「人の死」に対して脳死判定を行わなければならないとしなければならないのではないでしょうか。さらに,
 同頁で横田裕行も言っているのですが,一般の脳死診断と臓器提供のための脳死判定とは手続きが異なるという指摘があります。そうなると,どの脳死基準(判定法)を用いるかということが「人の死」にとって大きな問題となってきます。それについても触れられていません。


 加えて,井田は「生前に拒否の意思を表明できる仕組みを作る、という考え方に転換すべきです」と述べますが,その方法として具体的にどのような考え方があるというのでしょうか。
 そもそも「本人に拒否の意志がない場合」には家族の意志で提供できるという規定は,本人の拒否の意志を何らかの方法で抹殺してしまえば,家族に圧力を掛けることで臓器提供を可能にできるということを意味しています。ですから,本人の拒否の意思を確認する手段の1つ(あくまでも絶対的なものとはしない)として,本人の拒否の意志を客観的に確認できる仕組みを作っておく必要があります。
 それはどのようにして可能になるのでしょうか。現行法の「臓器提供意思表示カード」は,本人の臓器提供の意思を表示するものとして,臓器提供の為に必須のものですから,臓器移植を推進したい者たちは躍起になってカードを探します。しかし,改正A案は臓器提供のために「拒否の意志」を確認する絶対的な理由はない訳ですから,拒否の意志を示すものがあるかどうかを必死になって確認しようとはしないのではないかと考えられます。なぜなら,見つからない方が都合が良い訳です。もし臓器提供した後でそれ(拒否の意志を示すもの)が発見されたとしても,「その時には拒否の意志があるということが確認できなかった」として逃げを打つことが可能になりますから。
 そのような危惧も懸念されるというのに,「仕組みを作る」という全く何の中身もないことしか(その仕組みがどのようなものであるべきかということさえ)言わない井田を,信用などできようはずがありません。


 さらに,これは井田の記事の隣で中島みちも述べていますが,脳死を一律に人の死とすることで,救急医療の現場が疲弊している現状では,早々に治療を打ち切る流れが加速するのではないかという,これも一種の医療への不信なのですが,これについて,脳死を一律に人の死と定義しようとする人たちはどのように応じるでしょうか。


 最後に,そもそも井田はこの記事で,自分が臓器移植を推進することに賛成か否かという,この問題を語る上で最も重要な「立場表明」について,全く述べていません。「おそらく」臓器移植推進派であろうという推測をさせておきながら,最終的に立場が悪くなれば「私はそうではありません」と逃げを打てるようにしておきながら,脳死は人の死と定めれば良いのだというのは如何にも無責任な議論であり,それを聞かされる(読まされる)立場にもなって欲しいものです。


 結局のところ,これが法科大学院の教授の意見として新聞に載るようなものであるということに失望を覚えざるを得ません。まあ「法科大学院教授」という肩書きなど,中身には何の権威をも与えるものではないのですから(中身が良ければ肩書きは実際関係ない。肩書きが変な場合「裏読み」しようとするのは否定できないけれども),そんなことはどうでも良いのかも知れませんね。


補足
 中島は「現行法は最高の選択であったと思っています」と語っているのが,どうも井田の意見とバランスを取るために配置されているようにしか見えず,これが気になります。この3者では,私は中島の意見に最も近い立場になるのですがね。


 2009年6月19日付の朝日新聞で,井田は「移植に無関係の場所で脳死での死亡宣告が行われることは考えづらい」と述べていますが,それこそ成立前から法の運用が適切に為されないことを予見するものであり,法学者として批判しなければならないことではないでしょうか。「救急医学会のガイドラインに法的正当性を与える」などと喜んでいる場合か!


* 本論に絡まないのでここで言うのは適当でないが,肉刑(身体を傷つける刑罰:入れ墨や髪切りから足斬り、去勢なども含まれる)の方が残酷さでは上を行くと考えられているから,肉刑の方が先に廃止されたのではないか。死刑廃止論者は肉刑を復活させ,(例えば)無期懲役の代わりに両足,両腕,生殖器等々を斬る刑罰も考慮に入れてみてはどうか! 孔融はそういう状態で市井に放出されても,その後の人生に希望が持てる訳がないと言っているが,それでも生きていることが何物にも代え難い重要なことなのか? そもそも肉体を毀損しないことを刑罰の前提として考えているのが,近代になってようやく前提となるに至ったのだということについてはどれくらい自覚しているのでしょうかね。

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