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zoom RSS 被疑者を「のぞき見」すること

<<   作成日時 : 2008/11/11 00:15   >>

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 このことに1週間気が付かなかったことについて,自らの怠惰な態度と知的怠慢を羞じるものであります。


 ヨアヒム・シュレーア(Joachim Schlör)の『大都会の夜』(Nachts in der großen Stadt)に,警察による夜の街路の監視についての議論の1つとして,このような話が引用されています(フォン・バウマー『堕落した少女および実際的生活の立場からする風紀警察』からの引用、1886年)。

 倫理協会の方々は、警察は街路上にのみ配置されるべきであり、そこでの違法行為の有無にだけ注意を払えばよいと、警察に対して呼びかけているが、実際のところはそれだけでさえ彼らにはもうやり過ぎだということになる。というのも、『通信』の一八八一年第一号に掲載されたある記事の中で。ひとりの女性が憤然として次のように叫んでいるからである。
 『みなさんは、すべての人が警察の監視にさらされることによって、誰しも個人的に直接被っている恥辱を許容するつもりですか。』
 つまり、監視されていると意識するだけで、その女性にはもう耐えられないのである。しかし、警察がそこに配置されているのは、人々を例外なく監視するためにほかならない。なぜなら、いま犯罪者でない人でも、今後そうなるかもしれないからである。したがって、上のような憤慨の叫びを耳にして、誰かが『私の全体的印象としては、まるでご婦人たちが道徳上の統制を受けるのを恐れているかのようです』とわれわれに言ったとしても、何の不思議があろうか。*


 この引用部分の「倫理協会」を「商店街」に,(配置される)「警察」を「監視カメラ(防犯カメラ)」に,それぞれ置き換えてみると,現代でも通用するような議論になるのではないかと思います。また,「誰かが」言っている部分も,「私の全体的印象としては、まるで監視カメラ反対派の人たちが道徳上の統制を受けるのを恐れているかのようです」と言い換えれば良いのではないかと思う人がいるかも知れません。

 さて,現代にも通用しそうだという感覚と,それに伴う冗談はさておき,120年前から,監視の目が街路に向けられている目的は「街路上で違法行為の有無に注意を払い,人々を例外なく監視する」ことなのです。

 ここから考えると,現代の監視カメラも,その設置目的は2つに集約されます。すなわち
 1.カメラを設置することにより心理的圧迫を与え,犯罪行動を抑止すること
 2.犯罪が起こった時は,その状況を記録し,多数の目にさらすことによって,犯人の迅速な逮捕に貢献させること
の2点です。

 監視カメラの設置の必要性を公共の利益の観点から主張し,プライバシーの侵害という反対意見への対抗言説とするには,使用目的がこの2点に限られていることが必要となります。
 もし,この2点から外れるような使用をした場合,それはもはや監視の域を超え,監視の名を借りた単なる「のぞき」に成り下がってしまい,監視カメラ設置反対派の危惧するところのプライバシーの侵害以外の何者でもなくなってしまうのです。

 さて,先日「大阪市北区で起こった死亡ひき逃げ事件」の被疑者として吉田圭吾という男が逮捕されましたが,その直前に彼が入ったというラーメン店(敢えて名は伏せる)の監視カメラに彼が映っていたとかで,その映像がそこら中のメディアで使われていたことは記憶に新しいところです。

 ただここで,この映像を流布させたことが果たして妥当だったかどうかを考える必要があります。
 今回の場合,この映像がメディアで公開された時点ですでに吉田は逮捕されており,この映像を公開することを「犯人逮捕に繋げるための情報提供」と言うことはできません。また,吉田はこのラーメン店で犯罪に関わる行為をした訳ではないので,当該事件の関連として映像公開の根拠とするのも無理があります。
 本来被疑者が逮捕されたことにより,ラーメン店の監視カメラの映像はその役目を終えたのであり,その後わざわざ見せしめのように公開することは,逮捕直前の被疑者がどのような顔をしていたかとか,逮捕直前被疑者が何をしていたかを知りたいという,単なる興味を満たすものでしかありません。当然,このような興味を満たすことも「知る権利」の一環なのかも知れませんが,監視カメラの設置目的から外れる,単なる「のぞき」でしかなく,そのような行為を助長することが,果たして言論機関として妥当な行為なのか,そこに言及したメディアは皆無だったのではないでしょうか。

 一般民衆は被疑者を取り調べる立場にも裁く立場にもありません。このような「のぞき」の欲望を満たすことが,被疑者の公正な取り調べや裁判への布石となるのならともかく,単に好奇心を満足させるだけの物であるならば,そのような欲望は充足される必要がありません。捜査官でも裁判官でもない,ましてや被害者の家族でもない一般の我々は,そのような情報を知る必要がないのです。どうせ知ったところで,その時の一面的な被疑者の情報を知るだけであり,偏見の素にしかならないのですから。
 実際,今回のケースでも,ラーメン店の監視カメラに写った吉田が笑顔を見せていることに「反省の色がない」という批判がありましたが,ここまで来ると,「逃亡中の被疑者のあるべき姿」というイメージを押し付けているだけであり,被疑者そのものを見ようとすらしていないことが如実に表れています。

 また,吉田のことを極悪非道な人間であるかのように扱うメディアが多いのですが,吉田のやったことをよく見てみれば,ちょっとした不都合を覆い隠すために不正を重ね,その結果として殺人にまで至ってしまったのであり,不都合の覆い隠し方にしても,最初から殺人を意図していないという点においても,全くの小者でしかなくて,所謂極悪人とは訳が違うのですが,そのような点に注意を払ったコメントはどのくらいあったのでしょうか(もちろん被害者から見れば,加害者が小者でも極悪人でも被害は変わらないのですが)。


 朝日新聞でも,その映像を何枚も使った記事が掲載されていますが,朝日新聞は監視社会に批判的であるにも関わらず,監視の域を超えたのぞきに加担したのであり,その意味では他のメディアと何ら変わることがないと言えます。そして,その点で考える限り,メディアとして社会倫理を問えるような媒体機関と呼ぶことはできないのです。
 朝日新聞は,このままますます墮ちていくのでしょうか。


追記:一番の問題点は,監視カメラの氾濫する状況に対して,「監視社会」と批判する人たちと「安心を求めて」賛成する人たちとの議論が全く噛み合わない現状です。「監視カメラで撮られて困る」範囲すら異なっている(「違法行為をしないのなら撮られても困らないだろう」という賛成派の意見は,批判派にとって何の参考にもならない。批判派にとって,撮られて困るものは違法行為にとどまらない。「ある時点に自分がそこにいた」という事実もプライバシーだと考えれば,撮られていること自体を立派なプライバシーの侵害と考えることはできるのだ)のに,視点の異なる相手を自分の視点からのみ批判しているのでは,議論が噛み合わないのも当然のことと言うほかないのです。
 今回のようなケースは,監視カメラ賛成派にとっても監視カメラの設置目的の建前を揺るがす大事件なのですがその点に注目しないというのは如何なることでしょうか。現状として「監視社会」になっているという批判に応えることができずして,監視カメラの推進を図っていくのは支離滅裂です。


*『大都会の夜』ヨアヒム・シュレーア著、平田達治/我田広之/近藤直美訳、鳥影社、2003、pp.223-4。

参考
asahi.com:防犯カメラに容疑者、逃走はかり転倒 大阪・ひき逃げ
 http://www.asahi.com/national/update/1105/OSK200811050073.html?ref=rss

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