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zoom RSS つられて「言論の自由」を考えてみる

<<   作成日時 : 2008/08/14 23:52   >>

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 果たして日本には言論の自由があるのか、という疑問は左右問わずよく挙げられるものです。大体の場合、自分の意見が世間で批判され、発言が封じられそうになっていると感じる時に発せられるものなのですが、一般的に論じようとする時には、自分が当事者になっていないことが必要となります。いくら「当事者主権」と言っても、当事者はどうしても主観的に物事を見てしまい、自分にとってどうなのかという視点から判断を下しがちになるからです。その意味において、こういった問題について考えるのは、自分に関わりのない時が良いのです。

 さて、そもそも言論の自由があること自体良いことなのかどうかも、問題として議論され、考え直すべき時期になってしまったのかも知れません。この権利は、今の日本のように、物事を言うための環境が整っていて、さらに比較的ものを言うことに対して寛容な権力(国家を運営する面から見れば、まるで考えがない裏返しでもあるが)の下だと、当然のものと捉えられてしまっていて、そのありがたみが分からないということもあるでしょう。

 甲梨氏のWeblog(日本見聞―「両刃の剣ーー言論自由」)には、このような文章があります。
 自由は人権のひとつである。自由を保障しなければ、人権侵害になる。しかし、自由を濫用することによって、結果的に人権を侵害することになるかもしれない。人間が自由権を行使して、必ずいい選択肢にするとは限らない。

 人権の1つであり、保障されなければ人権侵害となる自由だが、濫用されることによって人権を侵害する可能性があり、自由の行使が必ずしも良い結果を導くとは限らない、つまり自由の行使を認めることが必ずしも良い選択肢であるとは限らない、ということでしょうか。

 この文章の他の部分では、自由が災いをもたらす例としてWWUのドイツ、イタリアが紹介されています。
 ww2では、戦敗国では三巨頭のドイツ、イタリア、日本では、日本を除く、ドイツとイタリアが両方とも市民が自ら独裁政権を選んでいたのだ。(日本では、市民が独裁政権を選ばなかったのは日本では市民に選択権を与えられていなかったからだ。)つまり、自由が災いをもたらしていたのである。

 これだけを見ると、自由が独裁政権を選び、戦争という破壊行為をもたらしたということになり、自由が諸刃の刃であるという考え方も一理あるように見えます。

 しかし、この考え方には無理があります。まず、これは結果から論じています。結果を現在の視点から溯って見ているものなので、当時の市民が「残虐行為をした独裁政権」を選択したことになってしまっています。実際には、後に独裁政権となる政党の公約が、その当時の状況を打破してくれると信じたための選択であり、何らの根拠もなく独裁政権を選んだという風に捉えることには無理があります。
 ナチスの場合も、ファッショの場合も、最初から独裁政権を掲げて選挙に乗り込んだ訳ではなかったのであって、国民の前に甘言をちらつかせて票を取るという戦略を成功させ、政権を取った後に独裁化したのでしょう。
 しかもナチスへの傾倒については、(E.フロムの有名な)「自由からの逃走」とさえ言われているのですが、これについてはどう解釈するべきと考えているのでしょうか。
 あと、当時日本の市民に選択権がなかったという考え方は、戦争責任に関する区分論に通じるものがありますが、この視点についても疑問は呈されるべきです。この時期には男子普通選挙がすでに施行されており、何を指して「市民に選択権が与えられていなかった」とするのかははっきりさせておく必要があるでしょう。


 同じ文章の最後の部分、私からすれば非常に大きな問題があります。と言うか、これは自由を履き違えた上に、エリート主義が透けて見えるような管理社会論でもあります。そして、私も賛同できそうな真ん中の部分には前後が繋がって行っていないのです。
 言論自由は自由の一つである。人間にとっては身体自由は一番大切かもしれないが、社会、政治の領域では言論自由のほうが遥かに大切である。市民が自分のために、自分の言論自由を責任を持って行使しなければいけない。そして、政府が市民人権のために、言論自由を正しく導かなければいけない。

 身体の自由と言論の自由とは、相対的にどちらが大事かという性質のものではなく、どちらも同様に尊重されるべきものです。社会や政治の領域であっても、言論の自由の方が遙かに大切などということはありません。
 言論の自由があっても、身体の自由がなければ、発言にどれだけの自由が保障されるのでしょうか。例えば、身体に拘束や監視(可視不可視を問わず)をかけ、いつでもどのようにでもできるような状態におかれた者に「自由に発言して良い」と言っておいたとしても、その人の発言が本当に自由に為されたものなのか、そこに存在する自由は果たしてどのようなものか、よく考えてみていただきたいものです。
 また、「政府が市民人権のために、言論自由を正しく導かなければならない」に至っては噴飯ものです。政府は政策や行政機関を通すことによって、ぶつかり合う各個人の権利や自由について調整を行うことはあるかも知れません。しかし、政府が各個人の権利や自由を規定するようになったら、言論の自由は事実上崩壊してしまいます。
 そもそも言論の自由は、市民(国民)が政府から勝ち取ったものであって、政府に導いてもらうものではないのです。時の経過によってその有難味が薄れ、再び各市民(国民)の成熟が必要だとしても、それを政府に担わせることは、過去に勝ち取った自由を政府に返還することになります。自由を政府に返還するということは、それこそ社会の舵を独裁社会の方に切るということであり、自由が良い結果を生まないどころか、それそのものを捨て去ってしまうことになるのですから。


 もちろん言論の自由とは、自由に発言できる環境があれば万事OKということではありません。それ自体は、自由に発言できる環境があり、そこで如何に各人が責任を持った発言ができるのかという部分も含め、全体として社会をどのように構成するのかに関する基本条件の1つでしかないのです。
 発言する側には言論の自由があり、思想・信条の自由があり、各個人の知る権利に基づいて情報を得る権利があります。逆に言及される側にはプライバシーに関する権利(必要以上に私的情報を暴露されない権利)があり、名誉権(名誉毀損されない権利)があります。また、各個人は知る権利を持つと同時に、得る情報を選択する自由(情報を強制的に注入されない権利)もあるのです。
 これら様々な権利や自由は、他の権利や自由によって侵害を受けていますが、もちろんそれ自体が他の権利や自由を侵害するものでもあり、社会はその兼ね合いの中で動いています。どれか1つの権利や自由が他の権利や自由に比べて絶対的に尊重されるのではなく、他の権利や自由をどの程度毀損しているのかによって、認められるべき度合いが変わってくるのです。またこれには、どの権利や自由がより大きく認められるべきと考えられているか、という社会背景も大きく影響してきます。


 現在の日本に言論の自由があるのかという点については、非常に微妙な問題を抱えています。甲梨氏の言うように、インターネット、メディア、マスコミで「狂言氾濫」しているものがあり、それを読み解く能力(メディア・リテラシー*1)の必要性が言われています。しかし「狂言氾濫」は自由の現れと言うこともできますし、誰でも気軽に発言できるが故の副産物なのかも知れません。もちろん、だからと言ってどのような発言でも許されるということではないのですが。


 その点を踏まえた上で、現在中共が批判されているのは、政府によって情報に関する権利や自由が「過度に制限されている」とみなされ、「自由な言論社会」の条件を満たしていないとみなされているからです。
 その点で、中共は西洋から同類としての承認を受けておらず、西洋から見れば「劣った国」と言われているのです。但し、どのようにすれば西洋から承認が得られるのかというのは大きな問題です。日本が1980年代に西洋からの承認が得られなかったように(ジャパン・バッシングが典型例)、中共は2000年代に入って、西洋からの承認を得たいと考えていますが、それをまだ受けることができていません。20年前の日本の例、それに現在のトルコの例から考えれば、西洋は永遠に中共を承認しないのかも知れませんが。
 そして、日本は20年前に現在の中共と同じ仕打ちを西洋から受けていながら(今の中共と同じ立場に立っていた経験があるにも関わらず)、現在西洋の尻馬に乗って中共を同類としては承認しない方向で動いています。まるでそうすることによって、西洋からの承認を20年前に得られなかった恨みを晴らしているかの如くです。それ自体は中共にとってとばっちりではあるのですが、西洋の他者承認の一端を示すものでもあります。
 ここで中共には2つの選択肢があります。あくまでも西洋からの承認を目指して西洋化の道を歩むか、西洋からの承認を諦めて独自の発展を追求するかです。前者は、也許永遠に承認が得られないかも知れないという不安を抱えながら進むことになります。後者は、西洋からの批判は止むことなく、常に敵視されることを覚悟する必要があります。
 (この辺りは、阿部潔『彷徨えるナショナリズム』、汪暉「オリエンタリズム、民族区域自治、そして尊厳ある政治」―『現代思想』2008年7月臨時増刊「総特集チベット騒乱」所収を参照)


 さて、甲梨氏のWeblogの文章をいくつか読ませてもらいましたが、中国語國語/普通話*2で教育を受けてきた人(ほとんどは台湾人/中国人日本語学習者になるのだが)の文章に特有の使い回しが多く、さらに助詞の使い方が下手で、文意が変わるような誤用が多く、非常に読みにくいものです。遠慮なく言うならば、漢字仮名交じり文ではあるが、「日本語になっていない」*3のです。
 たかがWeblogに出す文章ですが、人に学者の心構えを説く人(日本見聞―「石平さん,なぜ中国人は人殺しが好きなのか?」参照:それにしても、石平は確かに大学院卒ですが、果たして学者と言えるのでしょうかね)の文章として考えれば、やはり日本語チェックを受けてから出すべきでしょう。
 なぜなら、文章のネイティブチェックを受けておくのは、学者の態度として基本中の基本であるからです。もちろん、ネイティブチェックを受けるのは、言葉の使い回しが正しいか、意味が1つに限定されているかを見てもらうためですから、本来ネイティブかどうかには関わらないものです。ネイティブであっても、自分の書いた文章を人に見せ、文意が達しているかどうか判断してもらうのは当然の態度であり、それは文章の完成度を上げる作業の1つです。
 (それにしても「両刃の剣ーー言論自由」というタイトルでは、日本語チェックで「いただけないもの」とされてしまいます。「剣」と「言」の間を繋ぐもの、すなわち副題を示す記号として使われるのは「―」(ダッシュ)です。「‐」ハイフンや「−」(マイナス)を使ってしまう人も往々にして居ますが、その場合線の長さが違うだけなので気付かれにくいものです。しかし「ー」(長音記号)は非常に気付かれやすい誤用です)


*1 メディア・リテラシーは、本来メディア(特にメディアリッチなマスコミ)の情報を、何の疑問もなく受け入れ(させられ)ることへの批判から始まっているのですが、今では、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネット上の情報を批判的に受け止めることへ敷衍させておくべきものです。

*2 あまりこういう表現は好まないのですが、「中国語」の指す意味範囲が非常に大きくなっている割には「國語」、「普通話」の認知度が低い(日本では、習ったら忘れないものとしても、「中国語」学習経験のある人しか知らない)ので、いわゆる標準中国語を指す際には、このように言う必要があると思います。蛇足ですが、國語と普通話は、厳密には違うものとして捉えておく方が良いでしょう。

*3 私の大学の先生が、留学生の意味不明な文章を評して使う言葉。




(余談)
 映画『靖国 YASUKUNI』の上映中止問題が、「表現の自由」の侵害として大きく取り上げられた時期がありましたが、この問題について語っている人の多くは、当該映画の質については語りませんでした(森達也とかが「良い映画」と言っていたようですが、それは「靖国神社」という題材を扱っていることに対してのもので、映画論的にどのように良い映画なのかについては述べませんでした。実際見てみたところ、映画の技術面、芸術面、文学性、制作方法などに関しては、最悪の出来だったのですが)。とにかく「中国人監督が靖国神社を10年取材して作った映画」と言うだけで称賛の対象だった訳です。
 例えば、田原総一朗がやたらと褒めていた「ナレーションを入れない」手法について言えば、それが即田原が言うような「中立の視点」にはならないということは明らかなのです。「何をどのようにどれだけの時間映すか」の時点ですでに制作者側の選択が深く関わっており、「ナレーションを入れるか入れないか」のみが制作者の視点の中立性を示すものではない訳ですから、その点だけを強調する田原の言い方には無理があるのです。
 田原は、自分がメディアでどのように情報操作しようとしているか、という点*から考えているようですが、自分の番組で自分が真ん中に配置されている集団討論の構図と場面を二分割するような対談との構図の差自体がすでに中立の視点から外れているということに留意していないと言われても文句は言えないでしょう。

 とは言え、そもそも上映中止を求めたとされる「右翼」の人達も、当初は映画の現物も見ないうちから、「中国人が靖国神社が題材に映画を制作」ということで「反日的に決まっている」と思い込んでいたので、これも人のことは言えないのですが。さらに、実際に試写を見た人から「別に反日的とは言えない」という意見が出てくるようでは、この思い込みも政治的プロパガンダとしか捉えられないので、「実際に見てから批判しろ」という映画会社が無駄に喜ぶ(見る価値すらない映画でも、見てから云々となれば、映画会社にとっては問題にならない)意見がまかり通ってしまうのですが。

 さらには、試写を求めた稲田朋美議員に至っては、「右翼をけしかけた」とさえ思われている訳ですが、これがあながち流言と言い切れないのは、稲田議員がこの映画の「文化的価値」には言及しなかったことです。映画は単に作れば良いというものではなく、如何に見せるかという点も重要なのですが、その点がこの映画に関しては議論されていないのです。この映画に関しては、この点を衝けば、映画に対する批判として妥当性があったように思うのですが、靖国がどのように取り扱われているかという内容面、特に政治的態度についてのみ言及したのでは、如何に後で「表現の自由は尊重する」と取り繕ったとしても、上映させないように圧力をかけたかったから試写を要求したと捉えられるのも無理はなかったのでしょう。

 このようなことからすると、靖国神社とか、歴史認識とかに関しては、とりあえず物を作ったもの勝ちとなっているように思うのです。『靖国 YASUKUNI』に関して言えば、無駄に騒ぎを引き起こしたことによって、映画会社にとっては宣伝費をかけることなく映画の宣伝ができ、しかも無駄に騒いだ「右翼」の現物を見た後の転向によって「意見を言うなら現物を見てから」という風潮が生まれ、それだけで収入が無駄に増える結果となり、非常に喜ばしい結果となったことは言うまでもないでしょう(上映中止のみであれば、逆に大きな損害となるのですが、「表現の自由」の問題として騒ぎ立ててくれた人達のおかげで、宣伝費無しで大宣伝活動ができ、あちこちのテレビ番組が特集を組んでくれ、さらに「みんな見に行こう」的な意見が氾濫した結果、映画そのものを見る人の数は明らかに何もしない時より多かった訳ですから、初期に胃を痛めた分を取り返して余りあるでしょう。まあ、私はこの騒動が配給会社によって仕掛けられたという疑念を捨ててはいませんが)。
 それにしても、文化庁の外郭団体には、このような映画論的に何の価値もない(政治的には価値があるのかも知れませんが、それは助成基準にない)映画、すなわち文化的に無価値な映画に金を出したことについて、調査されればその経緯を説明するべきですし、稲田議員はその点から検証するべきでした。結局この騒動後、助成金の支出が妥当だったかどうかについての問題は立ち消えになってしまい、稲田議員に対する疑惑はむしろ深まったのであります。

 このような点から考えると、映画『靖国 YASUKUNI』の問題は、国会議員による試写要求が政治的意図を持っていると見られ、そこから表現の自由の問題へと進んでしまったために、映画の政治的な面だけに注目が集まり、映画の技術面などの映画論的な要素には注意すら払われなくなってしまったので、不完全燃焼に終わってしまったと言うことができましょう。

* 田原が番組でよく使う恫喝的な言葉だけが、田原の姿勢を示しているのではなく、都合が悪くなるとすぐCMを入れるような進行や、自分に都合の良い人間しか呼ばないという構成も、田原の姿勢を示しているのであり、これらを総合した形で「田原の番組制作法」ができあがっています。田原はナレーションだけで視点が成り立っていると考えているのでしょうか、それともこの煽り方も宣伝の一種なのでしょうか。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
ありがとうございます。
甲梨
2008/08/15 18:13

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