Eric Prog

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zoom RSS ナショナリズムに関する試論

<<   作成日時 : 2008/08/01 23:21   >>

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 ナショナリズムとは何なのか,これは結構難しい問題です。
 字面で見るとnational-ismですから,簡単に「国家主義」とされることもあるでしょう。ややけなして「国粋主義」と言うこともあるのですが,これ自体nation-stateすなわち国民国家(民族国家)を想定したものですから,「国民国家主義」となるでしょうか。
 しかし,言うまでもなく,「国民国家」では国民が単一の価値観を共有していることを想定しているのですが,自由度の高い国ではナショナリストであることと国民であることとは同一ではないのが現実です。これを簡単に「国民国家主義」と言ってしまうと,この思想に与しない人達を「国民ではない」あるいは「(国民としてあるべき姿勢を取っていない→)あるべき国民ではない」と規定できてしまうことになります。
 まあ,社会が複数の者による共生社会である以上,生活を行う上での基礎となる部分で何らかの「単一の価値観」が必要となることは否定できないのですが,それがどの範囲まで含むべきなのかということは議論されるべきことです。

 ナショナリストの中には,国家(政体)が国民(成員)に先行している(実際には逆で,植民地のような政体と成員とが不可覆の支配―被支配関係にある地域や,台湾のように超国家組織によって「国家」と認められていないために実態と乖離した状態にある政体でしか*,このようなことは起こらないのですが)と考える人もいます*。このような考え方だと,国家を維持する方向に向かわない国民の存在価値はないことになるのですが,政体は成員に依存するという政体の基本的な存在体系から外れた国家を想定することが,果たして「自然な」社会の進展を促すものなのか疑問です。
 中共のような独裁国家であれ,崩壊したと言われる社会主義国家であれ,人工的に社会を進展させようとした結果なのですが,あまりにも自由を制限しすぎていることが問題になっています。しかし,「自由がない」と批判しているナショナリストたちの考え方に自由を制限する要素が含まれているのならば,それは自家撞着にほかなりません。

 そもそもナショナリストの中には,自国内での多文化共生を否定している人もいるので,単一の価値観の共有は当然のことと思われるかも知れないのですが,例え単一文化であったとしても,あらゆる場面で成員の思想が統一的であると考えるのでは,一党独裁の共産国家と変わらないという矛盾を抱えているのですが,そこはどのように解決されるのでしょうか。
 1つの方法として,些細なもので良いから違う部分を見つけ,その差異を強調することによって矛盾の存在を否定するということが考えられます。しかしそれは,結果として表出するものに差を見出し,矛盾の存在に背を向けているだけなのです。
 しかし,一党独裁のような「単一の価値観」を強く押し付けるイメージのある国家体制には拒否反応を示すのに,ナショナリストでいられるのはいったいどういう事なのでしょうか。如何に御都合主義的だと言っても,ナショナリストたちに思想性がない訳ではありません。自分にとって都合の良い部分では,ナショナリズムを正当化する理論を展開しています。
 つまり日本では,ナショナリストは「単一の価値観」に拠っているにもかかわらず,全てを「単一の価値観」で括られるのは嫌だという,一個の人間としては当然の,政体から見れば身勝手な考え方をしているのではないでしょうか。そうなると,日本におけるナショナリズムは,「単一の価値観」の共有を前提にしているにもかかわらず,ある部分では価値観が相違していても構わない,むしろそれを当然と考えていることになり,ナショナリズムの典型的な形とは矛盾しているようです。


 他に「良いナショナリズム」とか「穏便なナショナリズム」とかいうものは存在するのかという問題もあります。ナショナリズムの定義によってはそのようなものを假定することはできますが,私はナショナリズムを「単一の価値観による国民国家主義」と考えているので,価値観の多様性を100%容認するナショナリズムは存在しません。よって,誰もが不満を持たないナショナリズムにはなり得ず,「穏便なナショナリズム」が存在するとしても,最大公約数的なもの,すなわち「比較的穏便なナショナリズム」でしかないと考えます。


 多文化共生や価値観の多様性を容認する立場を徹底すれば,ナショナリズム的立場を取る訳にはいかないのですが,すでに述べたように,社会は複数の者による共生社会であり,生活を行う上での基礎となる部分で何らかの「単一の価値観」(それに基づくルール)が必要となります。そうすると,その「単一の価値観」は確実に誰かの文化もしくはそれに基づく価値観を侵犯することになり,容認する立場と矛盾します。
 しかし,無政府主義者や国家体制自体を必要のないものとする人でもない限り,社会にルールが存在してはならないと考える人はいないでしょう。それならば,矛盾を抱えることは不可避の事態であり,この立場も徹底することは難しいということになるでしょう。


 まさか,日本やアメリカのナショナリズムは非難されるべきものであるが,発展途上国の自国をまとめ上げる手段としてのナショナリズムは容認できると考える人はいないと思いますが,まず,「発展途上国が発展する途上」をどのように捉えるのかという問題が残ります。
 ここで,日本やアメリカのナショナリズムが非難されるべき理由は,先進国のような,対外的国際的に影響力のある国が自国のことだけを考える思想に則って動くことが,相手側に不利益をもたらしやすく,結果として搾取の構造になってしまうことにあります。
 つまり,自国をまとめ上げる手段としてのナショナリズムが容認され得るのは,対外的に影響力を行使し得ない時,すなわち相手側に不利益をもたらさない場合に限られるということです。
 この視点から考えるならば,中共や韓国の対日ナショナリズムが,容認されるべきレベルのものであるかどうか。私はもはや容認されるべきものでは無くなっているのではないかと考えています。ここでこの視点は,現在の国際関係における影響力のみを基準にするべきであって,過去においてどのようなことがあったのかは,その基準の適用に関わるものではないということです。例え相手が過去の侵略戦争の被害者であっても,そのナショナリズムを批判することは許されない訳ではないということです。


 月並みな話ですが,結局のところ日本においては,ナショナリストとしての面と多様性を容認する面のバランスを,どのように取るのかということについて,意見が分かれていると考えるべきなのでしょう。
 多文化共生社会をどれだけ推進しても,日本固有のルールや文化が基調となっている現状を否定するところまで変化するのは難しいでしょうし,逆にナショナリズムをどれだけ推し進めても,自国にとって都合の良い国家とのみ関係を持ち,今一度外国人を排斥してファシズム国家になるというようなこともないでしょう。


* 台湾の場合,それ独自で国家体制が整っているという実態があるのに,超国家組織(国際連合)の場では,中華人民共和国という政体に属するものとしか捉えられていないという乖離現象を抱えていることを指す。なお,「台湾はすでに一国家である」と考える場合は,政体は成員に依存していることになる。

* coffeeなどはその好例。「国歌を歌うのが国民である証」と考えるのは,国家が国民に先行していると考えるからこそであろう。

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