Eric Prog

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zoom RSS 聖火リレー云々

<<   作成日時 : 2008/04/27 07:35   >>

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 長野市での聖火リレーが、とりあえず終わりました。
 ひとまず「大きな混乱」なく終わったことで、中共の中央は胸をなで下ろしたことでしょう。多数の中国人留学生が動員されたという情報もありますが、私の周りの中国人留学生には動員がかけられた形跡がないのです。…それ以前に、あれだけ大量の中国人が集まると言うことは、長野市付近に住んでいる人は除くとして、この時期に一日潰してでも動員に応じることのできる、時間のある「中国人留学生」がいるのだなあとほとほと感心する次第です。


 さて、一連の喧騒を通して、幾つか疑問が出てきました。

 1つ目、聖火リレーの妨害行為(特に暴力を伴うもの)をする目的とは何かということ。
 先日ダライ・ラマは、会見で非暴力を訴えていました。一部の人は、これを単に「暴力はいけないよ」的なものとして、悪く言えば仏教者の浮世離れした言の如く、捉えたのかも知れませんが、この発言がインドで為されたことに思いを致す必要があるでしょう。
 インドで非暴力といえば、ガンディーを思い浮かべる人もいるでしょう。松本健一『近代アジア精神史の試み』(岩波現代文庫、2008)にガンディーに言及した箇所がありますが,それによると、ガンディーは「暴力の肯定こそ、近代=西洋の文明原理に対抗するのに同じ原理を用いたもの」と考えていたようです。つまり、ガンディーの非暴力は、当時の支配者であるイギリスに対するアンチテーゼだったと言うことができましょう。
 それを踏まえると、今回のダライ・ラマの声明の最後に「事態がいかに厳しくとも、非暴力(non-violence)を実行し、非暴力の道から外れないでください」とあるのは、中共に対する強烈なアンチテーゼとして働くものなのです。
 だからこそ、チベット支援、反中共の声は「非暴力」によらなければならないのです。ここで暴力を用いることは、中共に対して中共と同じ手段を使っているということになり、説得力を失ってしまうのです。ダライ・ラマが中共との対話を容認し、非暴力を訴えてゆけばゆくほど、すなわち、中共の逆を行けば行くほど、中共のダライ・ラマ糾弾が虚しく響いているという現状を正しく理解したいものです。

 聖火リレーのトーチに対して物を投げ込んでみたり、リレーの列に乱入しようとしてみたり、果ては沿道で中共支持の五星紅旗隊と喧嘩してみたりと、反中共の方々の一部(と信じたい)は「非暴力」とは無縁の行動に走りました。この行動、一体誰のためですか。あなた方はチベット(引いては東トルキスタン、広西その他諸々の地域)のことを真に考えているのですか、自分の活動のための単なる手段として使っているだけなのではないのですか。それならば、あなた方と中共の間に何の差があるのですか。私はそれを問いたい。


 2つ目、聖火は一体誰のものなのか。北京に関わる人間が「北京のもの」と誤認しているのはともかくとして、中共・北京に抗議しようとしている者たちが、トーチの聖火を消そうとするということは、彼らまでもが「(少なくとも現時点で)聖火は北京のもの」と認識しているということになってしまうのではないでしょうか。
 さて、普通に考えて、北京が聖火を独占することは許されるのでしょうか。私は、どの段階であれ、聖火を北京のものとするのは、聖火の持つ意味を考えても、許されないものだと思います。その意味で、現在北京の取っている行動は、聖火を私物化しているものであり、非難されるべきものです。このままの状況が続くと、2008年中共にとっての北京は、1936年ナチスにとってのベルリンと同じような意味合いで捉えられることになるでしょう。「国威発揚の手段としての聖火リレー」を始めた当時のドイツと、「国威発揚の手段として聖火を私物化」した今の北京、リンクして見えるのは別に不思議なことではありません。
 しかし、聖火リレーを妨害しようとした者たちは、言論上は北京による聖火の私物化を批判しながら、行動では聖火の所有権が北京にあることを認めているのです。いや、人によっては、採火式以後、聖火の所有権は開催都市(あるいはその都市の所属する国家)にあると誤認しているのかも知れません。
 私としては、それは違うと言いたいのです。聖火を管理するのは開催都市かも知れませんが、その所有権までその都市に預けてしまうのは、五輪を国威発揚の手段とする、中共の考え方に結局のところ共感しているということになるのです。そのような者たちにとって、北京五輪の成功は「中華人民共和国の国威発揚が成った」ということでしかないので、何としてもそれを食い止めなければならないのかも知れませんが、暴力的手段を用いて目的を達成しようとするのであれば、それは自らが単に中共と同じ思想で動き、中共と同じ土俵で競争しているのだということを示しているのであり、その結果としてチベット云々は宙に浮いてしまうのです。そこに抗議行動の虚しさがあるのです。


 3つ目、それ以前に、メディアではロンドン、パリ、SFなどで行われた聖火リレーでの「抗議行動」の様子が報じられ、「中共・北京の威厳が傷ついている」というイメージが与えられていました(中共報道官もそう感じていたようです)が、果たして「抗議行動」によって傷ついたのは何なのか。
 これに関しては簡単に答えが出ないのですが、少なくとも中共・北京の威厳が一方的に傷ついたのではないように思います。聖火を媒体にした、何か聖火のトーチの主導権を握ることによって、自らの正当性が保証されるかの如き考え方を象徴するようなpower game、そのようなものにしか見えない以上、反中共側の醜さも見えてきているように思います。


 まあ、長野市での聖火リレー、中共・北京側の圧勝という結論を下さざるを得ません。数の上で勝っているということで、五星紅旗を持つ側には行動の余裕がありました。逆に、チベットを支援している(はずの)人達が暴力的行動に走ったことで、実はその人たちのチベット支援が単に反中共でしかなく、結局のところチベットなどどうでも良かったのだと言うことを如実に示してしまいました
 その点から考えても、日本においてはという限定ではありますが、聖火リレーを妨害する者たちに正当性はなかったということになります。「非暴力」を訴えたダライ・ラマに向かって、暴力の行使で支援した妨害者たちは、何を以てダライ・ラマに弁解するのでしょうか。
 例えチベット支援という目的が正しいものであるとしても(確かにそれ自体は正当性を持つでしょう)、チベットの人達(あるいはそれを指導する者)の望まない形での支援が果たして正当性を持つのでしょうか。もし持つとしたら、中共のチベット支配の非正当性とはいったい何なのでしょうか。

 この点について、4月8日の段階で非常に参考になるWeblogの記事(鴻日記:私達は賢明であらねばなりません)がありました。そこで鴻さんは以下のように述べておられます。
言論は力です。


が・・・血気に逸ってはなりません。

聖火ランナーに危害を及ぼしてはなりません。

聖火を消化するなんて飛んでもない。

過激な行動は、中国に利することとなりましょう

 …全くその通りだと思います。中共の手段は、現時点から見ると、チベットなどの「自分より弱きもの」に対しては全く帝国主義的です。それに対するに帝国主義的な手段のみを以てすることは、中共を利することになります。
 ダライ・ラマのように、アンチテーゼを以て中共に圧力をかけたいものです。即時的効果は得られません(ゆえにじれったく感じることもあるのです)が、まさに漢方薬の如く(これも何ともアンチテーゼにふさわしいではないですか)中共にじわじわと圧力をかけることができるのです。
 だからダライ・ラマは中共から目の敵にされ続けるのでしょう。私は中共自体、ダライ・ラマを悪者に仕立て上げることに無理があるのは分かっていると思います。しかし、中共にとっては、個々の「チベット人民」を敵とすることには、チベット人全てを敵に回す必要が出てきて、結局それはチベット民族抹殺というミッション・インポッシブルを発動する必要性に迫られてしまうというジレンマを抱えているため、「特定の」悪者の存在を必要としているのです。

 五星紅旗を掲げた側と、チベットやその他の旗を掲げた側との間でいざこざもあったようですが、ここで、(余りにも大量の)五星紅旗を大々的に掲げさせることによって、逆に中共(及び「愛国」の名の下に踊り狂うナショナリストたち)の異常さを強調するという戦術が取れなかったものかという新たなる疑問が浮かび上がってきます。
 メディア社会では、メディアに取り上げられなければ、その存在すら否定されてしまう傾向にありますが、この問題に関しては、視聴者側にメディアが伝えている裏事情を詮索しようとする姿勢があるので、表面的にメディアに現れている情報をそのまま真実と受け取られてしまう可能性はかなり低いと考えても良いのではないかと思います。だとすれば、表面的には中共の思い通りにさせることによって、逆にその異常さを強調するという戦術も、効果を発揮する可能性があったのではなかったかという考えもできるのではないかと思う訳です。

 まさに今回、過激な行動が中共を利することとなりました。やはりチベット支援としての反中共が託すべきは、中共を越えるpowerではなく、全てにおいて反中共を貫き、中共の論理破綻を実証することなのでしょう。

 警察が大々的にランナーを取り囲み、堅実な警備を行ったことで、青い服の「聖火防衛隊」がトーチ補助という名目での2人を伴走させるだけで済んでしまったということが、反中共側にとってはマイナス要因となったことも確かでしょう。
 しかし、そのようなpowerまみれの聖火リレーは、北京が聖火を私物化していることの証明でもあり、言うまでもなく無意味です。しかし、それを告発するのに中共と同じくpowerを用いようとしたことは、反中共側の論理破綻として責められるべきものでしょう。

 結局今回の五輪、中共も反中共も政治的に利用しています。チベット問題や聖火リレーはpower gameの単なる媒介となり下がってしまいました。おそらく今後あらゆる事象がpower gameの媒介とされるでしょう。そうなればなるほど、ダライ・ラマが主張したことは忘れ去られていくのだということだけは忘れないようにしたいものです。


 おそらく大多数の人達は(親中共・反中共に関わらず)、節度を守った行動をしていたのでしょう。しかし、メディアによって取り上げられて強調されるのは、メディアが異常と認めたものであり、聖火リレーで「存在したもの」とされるのは、混乱や暴力的行動だけなのです。
 だからこそ、反中共側は自制して欲しかったのです。異常なまでに静かな状況というのが、如何に異常なものなのかを伝えるために。


 …それにしても私には、「維新政党・新風」の声明「JOCは北京オリンピック不参加を決断せよ!」が非常に空虚に見えます。似非古文はともかくとして、「われわれは北京オリンピックなる「偽りの祭典」を決して成功させてはならない」と意気軒昂に述べるものの、その具体的手段を示さない姿勢、すなわち中身のない主張、何とも虚しく響きます。
 さらに、軍隊を正当化し、武力行使を堂々と掲げ、核兵器も辞さない新風の主張、powerの捉え方が全く中共と同じです。反中共が中共と同じ状態、弱者たるチベット(及びチベット人)を媒介とした帝国主義者同士の戦いでしかありません。反帝国主義者の共感など得られるはずもないでしょう。



参考
ダライ・ラマ法王の声明(2008年4月6日)
 http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/message/080406_statement_to_all_tibetans.html
 ※英文:http://www.dalailama.com/news.222.htm

鴻日記:私達は賢明であらねばなりません
 http://wildswan0312.blog4.fc2.com/blog-entry-78.html

〈維新政党・新風〉声明:JOCは北京オリンピック不参加を決断せよ!
 http://sokuho.sblo.jp/article/14406400.html



 

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