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zoom RSS 焦点のずれた批判

<<   作成日時 : 2008/02/11 22:28   >>

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 学校式典で君が代斉唱時に不起立だった元教員について,嘱託教員としての再雇用を拒否した東京都教委に対し,東京地裁がそれを不法行為と認め,元教員への賠償を命じる判決を下したことがありましたが,それに対して東京都教委は控訴するそうです。

 東京地裁は,再雇用拒否に対して「ほかの事情を考慮した形跡がなく、裁量を逸脱している」と判断したようです。例え君が代斉唱時に不起立だったことが職務命令違反に当たるとは言っても,そのことを判断材料の全てと出来るのかという疑問は,蓋し当然のことでありましょう。なお,当該判決では職務命令自体は合憲と判断しているのであり,「君が代斉唱時に不起立でよい」と言っている訳ではないのです。

 まあ,年に1〜2度の職務命令違反,しかも君が代斉唱時不起立という,形式主義的に見れば議事妨害にすら当たらない行為を判断材料として,再雇用しなかったことは,あまりにも見せしめ的であり,不当だと言えるかも知れません。都教委が控訴すれば,高裁に持ち込まれる訳で,再雇用拒否が「見せしめ的」かどうかまた争われることになるでしょう。
 しかし,原告側が主張している「職務命令の違法性」は,これまで同様認められないでしょう。「世俗主義」日本においては,公的な場で私的感情を露わにすることは認められないとする風潮が強いのですから。また,公的な立場にある者がその職務として行った行為は,それが立証される限り,南アフリカの真実和解委員会でも免責の対象となっている(後輩の修士論文にこのように書いているので,使ってみたかっただけです。…完全な蛇足)のですから,公務員たる教員は違法性のない職務命令には従わなければならないと言うことになり,国旗・国歌法がある以上,職務命令は形式上違法性を持たないので,この点についてはこれ以上問われる必要はないかも知れません。
 その意味では,原告側が都教委側に控訴しないように要請しているのは奇妙なことです。原告は,この裁判で直接主張していないとしても,職務命令自体に違法性があるという主張を展開しているのですから,この判決に満足できるはずがないのです。それなのに,裁判を終わらせようとするのは,結局のところ実利主義でしかなく,しかも自分たちの正当性を主張するために,裁判所の権威を利用しようとする権威主義でしかないことを露呈してしまっています。ここで裁判が終われば,最高裁の判例と合わせて,君が代の伴奏や君が代斉唱時の起立を職務命令とすることは合法であることになり,しかもそれも裁判所の権威によるものなのですが,それでも彼らに同調する人達は「不当」を主張し,伴奏拒否や不起立を続けるつもりなのでしょうか。これは,明らかな二重基準でしょう。


 さて,いくつかのWeblogがこの件に触れていますが,2つほど論点がずれてしまっている点で面白いものを取り上げてみましょう。

 1つ目は「維新政党・新風を応援」するというdeliciousicecoffeeさんの記事から2つ。

引用1
反日教師を退職後に嘱託教員として採用しなかったことが違法だなんて、有り得ない。

退職後に嘱託教員どころか、反日教師など即刻「懲戒免職」にするべきだ。


引用2
そもそも、国歌を斉唱しない者など国民とはいえない。

カナダでは3年住んで、カナダに関する簡単なテストとカナダの国歌を斉唱すると市民権がもらえるという。

国歌斉唱こそが、国民の証となるのだ。

非国民が教師などやるんじゃない!


 非常に意気軒昂でありますが,惜しむらくは根拠稀薄なのです。引用1では,「国歌斉唱時不起立=反日」と短絡的に結び付けていますが,このような単純な二項対立の図式を作って,「日本人」同士の対立を煽る言動,それこそ「反日」であるという切り返しも可能です。
 「自国にとって不利益な行動」を取っている者を「非国民」として切り捨て,純化を図ろうとする姿勢は,日本人同士の醜い争いを煽るものであり,それこそ日本にとっての不利益(=反日)であるとも言えるでしょう。そうなれば,deliciousicecoffeeさんも「反日」となるのではないでしょうか。
 但し,所謂左翼系も右派を切り捨てる形で純化を図ろうとしているのであって,「同じ穴のムジナ」でしかないということは,言っておかなければならないでしょう。今回の元教員が妥協案を示されたところで受け入れる可能性は低いでしょうから,「反日」の指摘はあながち間違ってはいないのですが,それでも「国歌斉唱時不起立=反日」の短絡は指摘されるべきでしょう。

 また,他のWeblogでも見られる「懲戒免職にすべきだ」と言う意見も,上述の純化を図る姿勢に繋がるものであります。
 そもそも,日の丸・君が代の存在意義や,なぜ国旗・国歌がそれでなければならないのかさえ説明できないにも関わらず,「国旗・国歌に敬意を払うのは当然」という抽象的で,かつ(一般論であるがゆえに)反論しにくい論理を持ち出し,日の丸・君が代に敬意を払わせようとする,あまつさえは職務命令として無理やりに従わせようとする姿勢は,本来その場しのぎでしかないものです。
 この状況を打破し,日の丸・君が代を国旗・国歌として定着させる,あるいは別のものを国旗・国歌として制定することが望まれますが,現在の東京都教委(のみならず政府や文部科学省)にそれを望むのは,あまりにも高望みなことなのでしょうか。
 不平分子の教員を懲戒免職にすれば,確かに教育現場は純化されるかも知れませんが,それで日の丸・君が代が国旗・国歌として認知され,万事解決と言うことになる訳ではなく,それどころか,不平分子が下野するだけで,問題はそのまま残ることになるでしょう。もし,不平分子が民間にいる限り問題ないと思うのであれば,それは単なる官尊民卑の変形でしかなく,公務員を奉っているに過ぎないのではないでしょうか。

 また,引用2には,国家と国民の関係が書かれていますが,これは十分に考える必要があるものでしょう。
 そもそも「国家」と「国民」,どちらが先に立つものなのでしょうか。実はこの問題,一見して答えが分かりそうなものなのですが,それが実際の答えと逆であるという複雑怪奇なものであるがゆえに,deliciousicecoffeeさんのような誤解(敢えて言い切ります)が生まれるのです。

 「国家」は共同体の一種であり,その構成員は「国民」と呼ばれます。
 確かに,「国民」は「国家」なくして存在し得ませんから,「国家」なくして「国民」なしと思えるかも知れません。
 しかし,共同体はそれを必要とする者(たち)が居なければ存在し得ません。そして,共同体ができあがると,「それを必要とする者」(たち)はその構成員となります。また,共同体を維持することを考えた場合,共同体の構成員は代替わりする必要があるので,構成員の子は,用件は違えど,ほぼ無条件に構成員としての資格を与えられます。
 ですから,実は「国民」の方が「国家」に先んじていると考える方が,自然であると言えるのです。

 なお,一度共同体が成立すると,その共同体に新たに参加しようとする者(たち)は,共同体によってその参加資格があるかどうか審査され,資格ありと認められれば,共同体の構成員となることができるのです。その一例が,この記事に挙げられているカナダの事例でしょう。
 なので,これは外部参画者の話です。外部参画者の資格審査が内部の人間のそれよりも厳しいというのは,高校入試などでもよくある話で,これを根拠にして「国歌斉唱が国民の証」との主張を展開するのは,牽強付会としか言い様がありません。

 そもそも,元教員は国歌を歌わないのであって,歌えない(知らない)訳ではないのですから,不起立の元教員の主張と,カナダの市民権取得の用件に国歌を歌うことがあるということとの間には,何らの関係性も見出すことができないのです。
 しかも,日本国籍取得の用件に国歌斉唱は含まれていません。カナダの事例を以て,日本で「国歌を斉唱しない者など国民とはいえない」という主張を展開するのは,自分にとって都合の良い時だけ外国の事例を持ち出して権威付けしようとする,悪い意味での外国追従です。もっと言ってしまえば,これ自体は(少なくとも日本においては)偽命題であり,ここで展開しようとしている議論そのものの意味をなくしてしまっています。

 「国家」は「国民」に一見先んじて存在していますが,結局のところ,「国民」は後からそう名付けられただけであって,実はその人たちの方が「国家」に先んじて存在しているのです。
 また,外部から「国家」に参画しようとする者は,今回の元教員たちと違って,「国家」に後付けで「国民」と認めてもらおうとしているのですから,「国家」の存在が前提となってはいますが,この人たちもその存在自体が「国家」に先んじているのは自明でしょう。つまり,この人たちも「国家」が「国民」に先んじる根拠とはならないのです。
 こういった関係性を理解しないと,国家先立説や鶏と卵説などの間で悩む羽目になることになるのではないでしょうか。

 deliciousicecoffeeさんは,「中国毒ギョーザ事件」に関して多くの記事を書いておられ,精細に分析している記事もあるだけに,たまに見られる感情丸出しの記事の存在が,「何とも惜しい」と思われてしまいます。

 追加,この記事では「古森正彦」なる人物の発言についての言及がされていて,それが事実なら結構問題視するべき要素があり,それだけでもdeliciousicecoffeeさんの記事は意味のあるものとなるのですが,インターネット検索では古森正彦について確認が取れないので断念。どこに載っていた情報なのでしょうか,できたら教えていただきたいものです。



 さてもう1つは,furufuruさんの記事。まず,記事の主要部分,地裁の判断を「誤審」としているのは,私とは違う考えですが,このような考え方もあるでしょうから,これについて議論するつもりはありません。
 しかし,私から見て問題と思えるのは,以下の記述。
国歌・国旗の存在を否定してる人物がいても僕はかまわないと思う。
それは個人の自由であるし、尊重しなければならない、だがしかし!
個人のそのような歪んだ主張を、公務員と言う立場から許されてもいいのだろうか。
自らの歪んだ主張を通したければ、公務員を退職し、そして堂々と主張するべきものであると僕は思う。

 長めに引用しましたが,「僕はかまわないと思う」と言っていながら,それを「歪んだ主張」と断じ,価値判断を加えて発信しています。読む人に向かって,「国旗・国歌の存在を否定している人達の主張は歪んでいる」とメッセージを発しておきながら,「僕はかまわないと思う」とか「個人の自由であるし、尊重しなければならない」とかいう言葉を付与することによって,自らを中立的に描き,自らの主張の方向性を隠蔽しようとしているのです。
 総論では「僕はかまわないと思う」と容認するような姿勢を見せながら,各論では「歪んだ主張」として否定的な価値判断を加えるものです。自分が賛成できるものについては,総論を持ち出すまでもなく賛成するのですから,結局のところ,総論を持ち出す時はそれが各論に反映されることはないのであり,これこそ「総論賛成,各論反対」(各論反対で一方向に傾斜していること、あるいは反動的であることを,総論賛成を掲げることで相殺し,自らの中立性、正当性を主張する態度)の典型例なのです。

 この主張を,「公務員は歪んだ主張をしてはいけない」と言っているだけだというように弁護することもできるでしょう。しかし,「歪んだ主張」の基準がはっきりしない中で,簡単に「歪んでいる」と断じること自体が,価値判断を加え,イメージを付与していることになるのですから,中立であるとは到底言えません。この記事自体が「歪んでいる」と言うことも可能でしょう。

 またそもそも,「歪んだ主張を公務員という立場からすることは許されない」というのは,どういう事を言いたいのでしょうか。「歪んだ主張」が何を意味するのかすら分からない中でこのことについて考えるのは,判断材料が少なすぎるので本来無意味なのですが,画一的な公務員像を想定しているとすれば,あまりにも金太郎飴的で,それこそ私は「共産党独裁国家」のマスゲームや軍事行進に出てくる人達(これも公務員ですね)の姿を思い浮かべるのですが,furufuruさんは親共なのでしょうかね。


 …さて,今回は偶々右よりと思われる人のWeblogだけを取り上げてみましたが,上述したように,所謂左派も左派で同じような悪癖を抱えていることが少なくないのです。結局,右派も左派も思考の内容が異なるだけで,そのパターンは同じであることが分かることになるものと予想しています。
 自分にとって都合の悪い主張を排除し,純化を図る作業は,日本という国の国益を考えれば,あまりにも無意味な作業でしかないと主張するべき時が,(また)来ているのかも知れません。

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