Eric Prog

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zoom RSS 最後の手段

<<   作成日時 : 2006/09/13 21:48   >>

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 最近,飲酒運転による交通事故がよく報道されるようになり,飲酒運転に対する庶民の目が厳しくなってきた…ようにテレビを見ている限りでは思われてきます。
 しかし,毎日飲酒運転による事故が報道されると,「飲酒運転に対する目が厳しくなっているのは一体誰なのか」という疑問が頭を離れません。 飲酒運転に対する嫌悪感が「庶民」の間に広がっているのなら,例え直接テレビを見ていなくても,その空気がどこかで感じられるはずではないでしょうか(引きこもり等一日中誰とも話をしない人もいますが,そのような人が飲酒運転で捕まっているわけではないので,そのような問題ではありません)。それなのに,飲酒運転のニュースが毎日報じられる,(そこにメディアによる操作:情報選択が含まれているとしても)この状況はいったい何なのでしょうか。
 この様な状態で,飲酒運転撲滅のためにどのような手段を取るべきかという議論がメディア上で為されているわけですが…。メディアの声は果たして飲酒運転をする人に届いているのでしょうか?

 飲酒運転に対してだけでなく,飲酒運転によるひき逃げに対しても厳罰化をという議論がありますが,「厳罰化に飲酒運転抑止効果があり,万々歳」とか,「厳罰化で飲酒運転を止められる」と本気で思って言っているのでしょうか。

 ふ・ざ・け・る・な!


 そもそも裁判の結果導き出される罰というものは,国民による委託で運営されている国家(政府)が,国家によって構築されるべき秩序を乱したものに対して加える罰です。
 元々我々の社会は,法律を前提にして成り立っているわけではなく,慣習という衆人の同意によって秩序立てられているのであり,国家は,それを「法律」という目に見える形にし,我々の代わりに秩序を守っているに過ぎません。
 つまり,あらゆる秩序は法律によって成り立っているのではなく,既存の秩序に従って法律ができあがっていくのです。法律によって秩序を成り立たせるのは,国家による最後の手段です。
 なので,我々が「飲酒運転をなくしたい」と思うのなら,まずは我々の間でそのような気運を高めていくべきであって,先に厳罰化を求めるのは,最後の手段を先取りしていることになります。

 「気運を高める」というのは何とも分かりにくい表現になってしまっていますが,「飲酒運転をなくす」という目的のためだけに手段を講じるのではなく,「何となく飲酒運転がなくなっていく」様な雰囲気を作っていかなければならないと言うことです。

 そもそも,法律というものの解釈を間違えている人が多すぎるのでしょうか? 弁護士気取りで法律講釈する人が多いですが,最終的な法律の適用者は我々「庶民」ではなく,国家なのです(裁判所は法律の適用の妥当性を担保するだけ)。我々の解釈は何の意味も持ちません(それが国家の解釈に見合うときのみ有効となりますが)。
 我々は,これも踏まえた上で法律でがんじがらめになる管理社会を創り上げようとしているのでしょうか? そうでなければ,これはもはや齋藤貴男お得意の世界ではありませんか。齋藤は「管理社会がやってくる」と言いますが,私は「我々が管理社会を創りにかかっている」と思います。しかも,全く他人任せの管理です。

 社会の管理を他人任せにして,それに安住した気になっているままでは,「ロボット・コンピュータの反乱」より先に,法律の反乱で「庶民」の生活は崩壊するでしょう。


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