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zoom RSS 小泉純一郎靖国神社参拝に関して

<<   作成日時 : 2006/08/16 23:04   >>

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 2006年8月15日,内閣総理大臣小泉純一郎が靖国神社に参拝しました。
 ここ数日の小泉談話を聞いていれば予測できたことで,昼に日本武道館にいなければならない(政府主催の慰霊祭)ことを考えれば,早朝(7時40分頃)の参拝も驚くようなことではありません(夕方や夜ならサプライズになるでしょうが)。よって,私は今回の参拝を「サプライズ」とは考えていないのです。
 さて,参拝後に記者団のインタビューに応じた小泉ですが,その発言を聞くに,やはりこの人は「他人の話を聞かない人」であります,自分勝手にしゃべり続けただけでした。

 中国(中華人民共和国:以下同じ)や韓国が政府首脳の靖国神社参拝(「首相による靖国神社参拝」を含めて以下「靖国神社参拝」)に文句を言っていることを批判していましたが,結局のところ,中国や韓国の意見は聞いていられないと言っただけです。
 さらに,中国が靖国神社参拝を理由に首脳会談を拒否していることについて,「1つ2つの意見の違いをもって拒否するのはよろしくない」と言っていますが,中国政府にとってはこの1つ2つの違いが大きいものであるということを考えていないのでしょうか。日中間には1つ2つしか意見の違いがないのではなく,意見の違いは多々あるのです。その中で違いが最も大きいものの1つが靖国神社参拝問題で,首脳会談拒否の原因とされているです。
 そう言えば「中国や韓国が反対するからと言って参拝を止めれば,外圧に屈することになるので,中国や韓国が反対すればするほど,その言葉に反抗するかの如く参拝を続けざるを得ない」とかいう意見があったように思われますが,これも,自分と異なる意見を排除するための方便にすぎません。この意見で述べられている「外圧」は,外国(政府)と意見が相違するときにしか現れません。後押ししてくれる力も「外圧」の一種なのですが,それは「外圧」とは呼ばれず「〜国も賛成」という言葉にすり替えられます。力の方向性によって力の呼び方が変わるというだけのことです。

 「8月15日を避けて参拝しても,やっぱり批判される。いつ参拝しても同じだから,8月15日が適切な日」という主張は,靖国神社参拝そのものを批判する勢力と,8月15日に靖国神社に参拝することを批判する勢力とを(おそらくは意図的に)混同していることを示しています。
 靖国神社参拝そのものを批判する人は,いつ参拝しようと批判する,これはその通りです。靖国神社に参拝すること自体を批判するのですから,時期などは最初から考慮の対象とされていないのです。
 8月15日を批判する勢力には,参拝そのものには反対しておらず,外交上の配慮等から8月15日を避けて欲しいという人もいるのですが,この人たちの意見も小泉の耳には届かないのです。

 A級戦犯が合祀されていることについて,「A級戦犯のために行っているのではなく,多くの戦没者のために行っているのである」と言いますが,靖国神社の主張によれば,祀られている神体はA級戦犯であろうと戦没者であろうと,全て一体となっているのではなかったかと思います。だとすると,「A級戦犯のためではない」という論理は小泉の心の中でしか通用しないもので,言葉面の辻褄合わせでしかないと言うことになります。
 また,心の問題にしてしまったことによって,形式上の問題を処理できなくなっています。このことからも,小泉は言葉遊びを続けていただけなのが分かります。小泉の説明は全て「場当たり的」なもので,小泉にとっては,思想や行動が先にあり,理由付けが後に来ているのではないかと思います。
 さて,なぜA級戦犯が問題となるかと言うことについて,小泉は言及していません(A級戦犯が問題となっていることには言及した)。しかし,中国政府の考え方からすると,A級戦犯に戦争責任をかぶせている以上,彼らを称揚する言動を容認することはできないということも理解しておくべきでしょう。

 「憲法違反と言う声がありますが,私は伊勢神宮にも参拝している。それを憲法違反という声はない」という小泉の反論は,靖国参拝憲法違反論に対する反論として一理あるように思われています。「首相による靖国神社参拝」を憲法違反と主張するなら,「首相による伊勢神宮参拝」も憲法違反でなければおかしいという反論は当然出てくるものです。しかし,「靖国神社参拝は憲法違反」論者はこの点についても一応の見解を出しているようです。それを踏まえた見解を出さなければ,反論にはならないでしょう。

 小泉は憲法19条と20条を持ち出しましたが,これは,宗教を押しつけようとする人がよく使う手なのです。「思想・信条の自由」と「信教の自由」は,本来思想・信条や信教に関してpower(「権力」などの訳が当てはまりますが,あえて訳さない)をかけられる側が主張するべきことであって,powerをかける側がこの言葉を使うとき,憲法19条と20条は容易に抑圧の手段となります。
 小泉自身は「首相が参拝する」ことの重要性を全く考慮に入れていないので,ある意味政治家として失格です。自らがpowerを行使する側であるということに対して,首相という身分が構成するpowerの一般的な同意に対して,余りにも無自覚です。これは「個人の問題」として片付けようとした全ての人に当てはまることでもありますが。

 それにしても気になるのは,小泉は「公約を守る」と言うことで8月15日の靖国神社参拝を実行したわけですが,以前「(国債発行30兆という)約束を守らなかったことは,(改革という大きな目的の前では)大したことではない」と言ってのけた人の発言とは思えませぬ。やっぱり,小泉のやっていることは,単なる言葉遊びなのです。自分に都合の良いものだけを選び取って主張を練り上げているのです(まあ,これとて小泉に限ったことではないのですが)。

 さらに,「靖国神社参拝批判は3つにまとめられる」と分析していますが,これ自体小泉自身の勝手な解釈であることにどれくらいの人が気付いているのでしょうか。マスコミもこの「3つの反論」を垂れ流しにしましたが,そもそも,靖国神社参拝批判論を3つの側面にまとめることが,この問題を解析するのに有効なものであるかどうかさえ検討されていないのではないでしょうか。一部マスコミ人は小泉の「マスコミは批判ばかりしている」という言葉に反応したようですが,マスコミが「権力批判」を謳うのなら,このような小泉の解釈の形式面(この上で論議が行われる限り,それが小泉によるものにすぎないことを理解するべき)に関しても批判を加えるべきで,内容だけを批判するべきではありません。「小泉」が靖国神社参拝批判論を3つの側面からまとめ上げること自体に大きなpowerが存在し,この問題の解析の方向性すら決めていることにマスコミは気付いているのでしょうか?

 私自身の観点からすると,小泉の反論には5つの側面があり,基本的には全て二項対立の図式を用いています。わざわざそれを洗い出すのはあまり好むところではありませんし,容易に見つけ出せるものですので述べません。

 始めにも述べたように,小泉の靖国神社参拝に対する理由付けは,自分勝手にしゃべっただけで,何ら批判に応えようとするものではなかったのです。私のようなその発言を叩く者からするとありがたいものですが,この問題に取り組む者としては何の効果ももたらさないものであります。

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